2023年05月03日

『デンジャー・クロース 極限着弾』を考察する12 ジャクソン准将について。


1ATF(1st Australian Task Force)第1オーストラリア統合任務部隊の初代司令官、オリバー・デイビッド・ジャクソン准将。
史実でのジャクソン准将の軍歴。
ダントルーン王立陸軍士官学校を卒業。1939年、第二次世界大戦勃発に伴い中東とニューギニアで勤務。
その後、朝鮮動乱では1RAR大隊長となります。
その後1965年には、オーストラリア陸軍訓練チームベトナム(AATTV)と在ベトナムオーストラリア軍(AAFV)を指揮。1966年に第1オーストラリア統合任務部隊(1ATF)初代司令官となりました。
と、立派な戦歴の持ち主であります。
執務室でふんぞりかえっているだけの人物ではありません。

劇中でハリー・スミス少佐がジャクソン准将の執務室での会話(脚本版)をザックリと紹介します…

准将 ハリー、用件はなんだ
少佐
私は軍人です
父も軍人でした
少佐
とても誇れる職業で―神聖です
少佐
私には指揮すべき部隊がありますが―私はここにいます
※新兵だらけの部隊を揶揄しています
少佐
まるで赤ん坊のお守のような任務です 私の経験と能力が無駄になっています
少佐
私にはふさわしい場所があるはずです
准将
君は元は徴集兵だったな?
少佐
そうですが職業軍人として改めて志願しました
准将

ダントルーン士官学校卒業かね?
※名門士官学校。通常は4年間で卒業となる。
少佐

ポートシー士官候補生学校卒業です
※短期士官養成学校。6ヶ月で卒業となる。
准将
ダントルーン志望では?
少佐
ダントルーンへ入るには学位も学費も足りませんでした
※ポートシーは学位不要。
准将
それでも 君は転属する権利があると考えている
准将
他にいい部隊があるのかね?
少佐
悪く思わないでください
准将
転属希望はどこだ?
少佐
コマンドーです
准将
古巣に戻るのか?
少佐
私の実力を理解し―正当に評価できる指揮官のもとです
准将
タウンゼンド中佐と違ってかね?
准将
中佐が嫌いか?
准将
よく聞きたまえ
准将
彼は大隊長であり貴官はその命令に従う
准将
彼が私に従うようにな
准将
分かってるだろうがそれが軍隊だ
准将
話は終わりだ

作品冒頭でハリー・スミス少佐が書いていたのは転属願いだったのが分かりますね。
ちらっとコマンドーのベレーも映っていました。
少佐は1955年から1957年までの2年間、2RAR(第2歩兵大隊)C中隊9小隊長として勤務していました。
そんなわけで戦場での経験も長く、少佐の甘い考えも完全にお見通しであるジャクソン准将。
大局的な物事の見方が出来る人物です。
物語の後半、D中隊の救援として虎の子であるAPC部隊を差し向ける際に、タウンゼント中佐と作戦方針についての会話があります。



…この辺りの流れを完全に読み違えている人がいます…実際のところ、1ATFに対して解放戦線D445(445大隊)が突入を意図していたと戦闘後の捕虜から証言も得ています。

↑図のD445の機動に注目。しかしD中隊を包囲するように後退したところ、APC部隊による攻撃を受けています。

「保身の為功績の為に行動する上役の為に現場が混乱するというのは多々あるのですが、戦時では大きな悲劇になります。その不条理に涙しました。 」公式サイトにはこんなコメントがありました。
映画はエンターテインメントなので、描写の全てが史実でなくてはならない、とまでは思いません。
史実だけ知りたいのなら、ドキュメンタリーを見るか戦闘詳報でも読めば良いんです。
ただし、作品の本質を完全に読み違えてはいけません。

劇中では、一兵卒から最高指揮官までが様々な判断を求められています。
ジャクソン准将とタウンゼント中佐の判断も、あの闘いでは正しい方を選択したと言えるでしょう。もちろん、スミス少佐の判断も。

出典:「デンジャー・クロース 極限着弾」公式サイト  

2023年05月02日

ベトナム派遣オーストラリア軍について②


~オーストラリア陸軍 第3歩兵大隊 第2次ベトナム派遣~

東南アジア条約機構(SEATO)の主要構成国であるオーストラリアは、1962 年より軍事顧問団のベトナムへの派遣を開始しました。
1965 年からは大規模な兵力の派遣を行っています。
ここではオーストラリア陸軍 第3歩兵大隊 (3rd Battalion, The Royal AustralianRegiment)の第 2 次ベトナム派遣(2nd Tour)について簡単に説明してみます。
1970 年、ニクソン大統領によるベトナミゼーションが開始され、アメリカ軍とオーストラリアを含む同盟国軍も段階的な撤退を開始していました。
第3歩兵大隊の第 2 次派遣は 1971 年 2 月から同年 10 月までの 8 ヶ月間、再びフォクトゥイ省ヌイ・ダットに駐屯を開始。
共産軍は戦力が減少した隙に乗じて、支配地域の拡大を図って戦闘は一部で激化。
第3歩兵大隊もロンカンの戦いと呼ばれる大規模掃討作戦に従事しました。

第3歩兵大隊B中隊5小隊の集合写真。
ロンカンの戦い

1971 年 6 月 6 日に実行された『オーバーロード作戦』に呼応して、第1オーストラリア統合任務部隊(1ATF)は、ロンカン省に存在している
南ベトナム解放民族戦線(NLF)D445 機動大隊及びベトナム人民軍第33連隊のベースキャンプを撃滅すべく、大規模掃討作戦を実行しました。
センチュリオン戦車を含む機甲部隊、砲兵部隊による支援砲撃も行われ、第3歩兵大隊とニュージーランド兵を含めた第4歩兵大隊による侵攻が開始されました。
しかし、事前に大規模作戦の予兆を感じていた D445 と33連隊による徹底的な防御戦闘と、巧みに配置された阻止陣地の頑強な抵抗を受け、侵攻は停滞していきました。
オーストラリア歩兵部隊への弾薬補給に投入されたヘリコプターも、北側に撃墜されるほどの激しい戦闘が続き、やがてセンチュリオン戦車の突入により北側の陣地も次々に陥落。 ロンカン省の共産軍ベースキャンプ掃討作戦は当初の目標を達成しました。
しかし D445 大隊と第33連隊の兵士は人員の大半が戦闘地帯からの脱出に成功しています。
1971 年10月6日、最後の第3歩兵大隊兵士が同地より離れ、祖国へと帰還しました。

M1956 歩兵戦闘装備の改善要求

オーストラリア軍は、アメリカ陸軍の M1956 歩兵戦闘装備を採用していました。当時の水準として先進的な M1956 歩兵戦闘装備ではありますが、戦地で使用されるうちに欠点も見られるようになりました。
マガジンポーチは L1A1 弾倉を各 2 本のみ収納可能、シュラフ/寝具はクイックリリース可能なウェブストラップでサスペンダーに固定するようになっていましたが、密林内での携行性は悪く、また木の枝などでズタズタになってしまいました。 堅牢な M1956 歩兵戦闘装備ではありましたが、過酷な戦場での消耗も著しく、前線の兵士たちからの改善を求める声が多数あがったと考えています。

オーストラリア M1956 歩兵戦闘装備について





前線の兵士たちからの改善要求に対して開発されたのが、オーストラリアが自国製造したM1956 歩兵戦闘装備です。マガジンポーチは L1A1 弾倉を最大で 4 本収納可能、これまで使用されていた P37 ラージパックに代わる新型ラージパック、ワイヤーフックと ALICE クリップを備えた水筒、新素材を使用した H 型サスペンダー、容量の増えたキドニーポーチが開発されました。


マガジンポーチは大型化され弾倉の収納数は増えましたが、引き続きポーチ内には手榴弾を収納し予備弾薬クリップはバンダリアで携行せよ、と統制された部隊もあったようです。



新型ラージパックは上下 2 層に分かれており、上層には携帯口糧等を、下層には寝具を収納する構造になっています。ショルダーストラップはクイックリリース機能が備えられています。
水筒は 2 通りの装備ベルトへの縛着方法が選択可能ですが、ワイヤーフックは引っ掛かりやすく専ら ALICE クリップでの使用が好まれていたようです。
ベトナム派遣オーストラリア軍の新型戦闘服





これまで使用されていたジャングルグリーンシャツとクロスオーバーベルト型のトラウザースに代わり、より実戦向けの戦闘服も導入されました。Pixi シャツと呼ばれるジャングルグリーンシャツとトラウザースが正式導入された時期は、残念ながら分かっていません。Pixi シャツは胸ポケットが大型化され、両上腕部にはポケットが追加され個人用包帯等が携帯できます。又、着丈も短いのでシャツをトラウザースに託しこまずに着用することができます。

1枚襟で袖部分に補強がある1型、2枚襟で袖部分の補強が省略された2型、2型とほぼ形状も同一なるも生地が薄手の木綿になった3型を確認しています。


トラウザースの大腿部正面には大型ポケットがありますが尻部ポケットはオミットされました。腰にはアジャスターが付いています。トラウザースに関してもポケットの仕様に差異が複数あるようですが、これらは製造メーカーによる仕様違いなのか分かっていません。
ベトナム派遣オーストラリア軍についての四方山話②

2021 年に日本国内でもロンタンの闘いを描いた戦争映画『デンジャー・クロース 極限着弾』が公開されました。現地のリエナクターや当時のベテランも作品に参加、当時の戦況を分かりやすく描写しつつも、劇映画としても楽しめる内容となっています。
気になる戦闘服や装備品については、レプリカも使用されているようですが、設定であるところの 1966 年を再現すべく、なかなか見どころの多い表現が為されています。
戦争映画なので、残念ながら日本語字幕に関しては省略や間違いが見受けられます。 情報量の多い日本語吹き替え版で観賞すると、より作品の内容が楽しめると思います。
日本国内のインターネットオークション等で流通している、いわゆる「ナム戦オーストラリア軍装備」は、1980 年代の同型品が多いようです。残念ながら識別点が分かりにくいので、日本国内のみならず海外でも「ナム戦当時モノ」として流通しているのが現状です。
オーストラリア M1956 装備は、ベトナムから撤退後も若干の仕様変更を行いつつ使用されていたので、程度が良い状態のモノは少なくなっています。
残念ながらアメリカ軍 M1956 装備のようにリプロが販売されることは恐らくないでしょう。
個人的には、先ずは戦後同型品を足掛かりにして装備を組んで、ヒストリカルゲームイベントに参加してみるのは悪くないと思います。
自分も初めて参加したアホカリ VN は全て1980年代の同型品からスタートしました。
現在ならば遠回りすることなく、もっと再現度の高い装備が集められるのではないかな?と思います。
先ずは参加して、他の参加者の装備や被服を見せてもらったり、分からないことは臆せず質問すれば、100%ではないですが何らかの回答があるはずです。
一番怖いのは「分かったつもり」になって、完全に間違えたままで続けてしまうことです。 そんなわけで、ベトナム派遣オーストラリア軍について少しでも興味があった場合は、恐れることなくイベントで声をかけてみてください。

出典:Australian War Memorial
Battle of Long Khánh  

2023年04月28日

ベトナム派遣オーストラリア軍について①


~オーストラリア陸軍 第3歩兵大隊 第1次ベトナム派遣~


東南アジア条約機構(SEATO)の主要構成国であるオーストラリアは、1962年より軍事顧問団のベトナムへの派遣を開始しました。
1965年からは大規模な兵力の派遣を行っています。
ここではオーストラリア陸軍 第3歩兵大隊(3rd Battalion, The Royal Australian Regiment以下3RAR)の第1次ベトナム派遣(1st Tour)について簡単に説明してみます。
3RARの第1次派遣は1967年末から1968年末までの1年間に渉り、フォクトゥイ省ヌイ・ダットに駐屯を開始。
1968年のテト攻勢ではアメリカ空軍ビエンホア空軍基地に対して増援部隊を送っています。
3RARはその後も複数の作戦に参加し、地雷除去、対迫撃砲戦闘や偵察任務に従事しました。
1968年末、3RARは第9歩兵大隊(9RAR)と任務を交代、祖国へと帰還しました。
第1次ベトナム派遣では3RARは24名の死亡者、93名の負傷者を生じています。
彼らは連隊共通のモットーである”Duty First”、最高の職務を果たしたと言えるでしょう。

オーストラリア陸軍M1956歩兵戦闘装備について


1960年代初頭、M1956歩兵戦闘装備を着用している1RAR(第1歩兵大隊)の某大尉。
オーストラリア陸軍は英連邦諸国が採用していたP1937歩兵戦闘装備を1960年代まで使用していました。
しかし、理想的とは呼べないP1937歩兵戦闘装備に代わり、アメリカ陸軍のM1956歩兵戦闘装備を採用しました。
同盟国であるアメリカと歩兵戦闘装備を共通することにより、補給面での簡素化も図られています。
形状や素材はアメリカ陸軍の仕様とは変わりませんが、オーストラリア陸軍向けのM1956歩兵戦闘装備は、USの代わりにD↑D※のスタンプが施されています。※DD(Department of Defence/国防総省の意)
バヨネットフロッグ(銃剣吊り)に関しては、オーストラリア陸軍での小銃用銃剣L1A2用に新規に生産されています。
M1956歩兵戦闘装備に装着出来るよう、ワイヤーフックが追加されています。
イギリス陸軍P1958歩兵戦闘装備について
イギリスで導入されたP1958歩兵戦闘装備はオーストラリア陸軍では採用しておりません。
しかしながら1967年に1名の使用者(2RARの某少尉)の画像が残っていますが、氏がどのような経緯で入手したのかは残念ながら不明です。又、洋書では同装備を特殊部隊が着用しているイラストがありますが、こちらも出典は不明です。
後述しますが、P1937ベーシックポーチ/ラージをP1958キドニーポーチと誤認している方もいらっしゃるようです。
M1956歩兵戦闘装備の欠点とその現地改善
非常に先進的なM1956歩兵戦闘装備ではありますが、戦地で使用されるうちに欠点も見られるようになりました。

マガジンポーチはL1A1の弾倉を各2本が収納可能ではありましたが、より容量の多いP1937ベーシックポーチ/ラージ※を代替使用する兵士が少なからず現れました。画像の兵士の右腰に縛着されているのがP1937ベーシックポーチ/ラージです。7.62×51mm弾が100発程度は収納可能です。
※オーストラリア陸軍がかつて採用していた大型汎用ポーチ

シュラフ/寝具はクイックリリース可能なウェブストラップでサスペンダーに固定するようになっていましたが、密林内での携行性は悪く、また木の枝などでズタズタになってしまいました。
兵士たちはP1937ハーバーサック/ラージパックで携行するようになりましたが、拡張性の低い同パックはクイックリリース機能もなく、容量も余り多くありませんでした。
堅牢なM1956歩兵戦闘装備ではありましたが、過酷な戦場での消耗も著しく、前述の通りに代替装備(P1937やP1944)を使用する兵士たちも多く現れています。
マガジンポーチに付属している手榴弾携行用ストラップは信頼性が低く、専ら麻製のトグルロープ等の固定に使われています。
予備弾薬に関してはバンダリアで携行し、手榴弾はポーチ内に収納するよう励行されていたようです。
分隊支援火器の弾薬携行方法


分隊支援火器であるM60GPMGの弾薬携行手段として、エアマットレスを分解してカバーにするユニークな方法(兵士たちはBlow upと呼称)がとられました。
画像の兵士がたすき掛けしている黒っぽい物体がエアマットレスを分解したカバーです。重い弾薬箱を使用することなく、かつ弾薬を濡らすことなく携行する方法です。ベトナムに派遣された他国の軍隊でも同様の方法での携行は見られません。

ベトナム派遣オーストラリア軍についての四方山話

装備被服は同時代のアメリカ陸軍装備と比べて、入手することが困難になりました。
オーストラリア本国内でも消費されてしまった感もあります。
しかし、最近は映画用のレプリカ戦闘服等も製作されるようになりました。
日本国内では他国に比べてM1956装備の入手については比較的に容易です。
今回の展示品のような装備を再現することは不可能ではありません。
ベトナム派遣時のオーストラリア軍については、残念ながら邦訳された解説本などは殆どありません。
しかし資料が全く存在していない訳ではありません。
検索すれば画像は湯水の如く現れますし、情報開示された資料も当時のニュース映画も閲覧可能です。
各大隊別の写真集も販売されています。
当時の従軍者もご高齢でありますがSNSに勤しんでいます。
稀にコミュニティで昔話に花を咲かせる場合もあります。
そんなわけで、資料もモノも無い、なんて状況ではありません。
自分も、途中で何度か放置していた時期もありました。
でも、きちんと下調べしながら集めていれば、彼の国の方から「我が国でもここまでやっている人は少ないよ」なんて誉め言葉(リップサービスでしょうが)を貰えるまでになれるようにはなりました。
全ての軍装収集趣味について言えるのでしょうが、自分が着用している被服や装備が持つ意味を理解する必要がある、そんな気持ちがあれば、あまりにも適当な格好は出来ませんよね。
もしもベトナムに派遣されたオーストラリア軍について少しでも興味があった場合は、恐れることなくイベントで声をかけてみてください。

出典:Australian War Memorial
  

2023年04月28日

『DANGER CLOSE 196X』Ver.3(仮)開催します。


今回は1964年7月の「ナム・ドンの闘い」をイメージしたエアソフトゲームを開催します。

ナム・ドンの闘いとは…
南ベトナム北部ナム・ドンCIDGキャンプに展開していた、CIDGストライクフォースとベトナム解放戦線/解放軍で行われた闘いです。
史実では夜間に行われた大規模戦闘です。
映画「グリーン・ベレー」のモチーフにもなっています。
ドレスコードは1964年までインドシナ半島に展開していたベトナム民主共和国・ベトナム共和国・オーストラリア・大韓民国etc…
今回はアメリカ合衆国第5特殊部隊群分遣隊およびCIDG隊員と、
MAAG-V(Military Assistance Advisory Group/ベトナム軍事援助顧問群)での参加が可能です。
※年代にそぐわない装備被服、民間人での参加できませんのでご注意ください。
南北ともに推奨するエアソフトガンはM1/M2カービンです。
基本的にメーカーは問いませんが、AGM/M1カービンがお勧めです。
双方ともにイコールコンディションで楽しめます。
イベント公式WEB:アフガン198X
開催日:6月24日 ミリタリーキャンプ 
   :6月25日 エアソフトゲーム
参加費:エアソフトゲームDayのみの場合¥4,000。 
    ミリタリーキャンプは別料金¥2000です。
    キャンプのみの参加費は¥3000です。
30歳未満の参加者は参加費をキャッシュバックします。
参加費用は現地徴収です。※現金のみ
場 所:千葉 サバイバルゲームフィールドGERONIMO
参加定員:25名予定
参加締切:6月20日 ※定員に達した場合は早期に締め切ります。
参加資格:18歳以上の健康な男女※装備被服は自弁してください。
本イベントはエアソフトゲームですが、実際の戦争をモチーフとしています。往時の兵隊さん達への敬意を忘れてはなりません。
互いの陣営の参加者にも、良識と誠実さをもって接してください。
【参加について諸注意】※別ウィンドウで詳細ページへ
【小火器類についての注意事項】※別ウィンドウで詳細ページへ
【エアソフトゲームに関して①】※別ウィンドウで詳細ページへ
【装備と被服について】※別ウィンドウで詳細ページへ
【1964年頃の南ベトナム解放民族戦線装備について】
※別ウィンドウで詳細ページへ
【1964年頃の第5特殊部隊群分遣隊被服について】
※別ウィンドウで詳細ページへ
【1964年頃のSF/CIDG/ARVN/AATTVの装備について】
※別ウィンドウで詳細ページへ
暫定スケジュール
6月24日(土) ミリタリーキャンプ
13:00 入場開始
19:00 有志BBQ開始予定※BBQ料金は割勘です。 
22:00 フィールド入場口閉鎖
24:00 完全消灯
6月25日(日) エアソフトゲーム
07:59     前日キャンプのみ参加者は08:00会場離脱
08:00     送迎希望者はJR千葉駅西口集合※先着予約順です 
08:30-09:30 受付時間※弾速測定も行います
10:00-10:30 開会式・ルール説明※戦闘装備で集合してください
10:40-11:40 第1ゲーム
11:50-12:50 大休止 昼食・撮影時間
13:00-15:50 第2ゲーム
16:00-16:30 閉会式/結果発表
16:40-17:40 撤収時間
18:00   完全撤収
【参加申込について】
参加希望の方は、具体的な参加ユニットと参加日程をコメントしてください。
コメントされていないと陣営配分が出来なくなります。
主催の判断でコメントを削除しますのでご了承ください。
コメント例
例1 南ベトナム解放民族戦線 両日参加
例2 オーストラリア軍事顧問 2日目参加 送迎希望
装備や被服について分からないことがありましたら、お気軽にお問い合わせください。  

2023年04月27日

『デンジャー・クロース 極限着弾』を考察する11 よくある疑問

『デンジャー・クロース 極限着弾』を鑑賞していて、いくつか疑問が出てくるんじゃないかと思います。
代表的な疑問に対する返答になれば…
「ロケ地の東南アジア感が無さすぎ…」

↑こちらは1969年に撮影されたロンタンの戦場跡です。

↑こちらは2005年に撮影されたロンタンの戦場跡です。現在は、立ち入り制限が為されているようです。

↑こちらは撮影中の様子。本作品はオーストラリアのカナングラにある密林戦闘訓練センター(Jungle Warfare Training Centre/JWTC)で撮影されています。同センターは現在もアメリカをはじめ、東南アジア諸国の陸軍部隊が訓練を行っています。
他の戦争映画の影響なのか、ベトナムは国土全体が密林みたいなイメージが強いようですね。
ロンタンのゴム農園跡での戦闘です。劇中でも台詞と描写(着弾して樹液が飛び散る)がありました。
いわゆるベトナム戦争映画の舞台になるような密林とは、異なります。決して間違いではありません。
アメリカが製作する東南アジアやジャングルが舞台になる映画は、だいたいハワイ島で撮影されています。
雲の形や植生で「ああ毎度毎度のハワイロケね…」なんて分かってくると思います。
「慰問ライブのシーンでは兵士のエキストラが少なすぎ…」
ごもっとも…ちょっと少ないですね。


↑こちらは当時の写真。

↑こちらは撮影時。
当時の動画がYouTubeでも閲覧できますが、よく再現していると思います。壇上の2人(リトル・パティとコル=ジョイ)も良く似てます。
「トラヴィス・フィメルがいまいち…」

実は、この作品を観るまで全く知らない俳優さんでした…
史実を基にした映画作品で、存命している関係者も多いので、基本的に当人に似た俳優さんが演じているんですが…
ちょっとトラヴィス・フィメルはゴツいですね。あの髪型も微妙です…

当初、ハリー・スミス少佐役はサム・ワーシントンが演じる予定もありましたが、やはりゴツいかなぁ…サム・ワーシントンはロンタンの闘いから40年後に製作されたドキュメンタリー番組のナレーションを担当しています。

個人的にはオーストラリア人俳優のベネディクト・ハーディが演じてたら…とか思います。ちょっと痩せぎすな体型かな。

「新兵を引き連れた精鋭部隊が敵にやられる話」
実際のところ、そういうお話です。
6RAR(オーストラリア軍第6歩兵大隊)は、職業軍人を基幹要員として、徴兵された兵士を基に新編された部隊です。
初めての戦場がロンタンでした。古参兵士と新米兵士との確執(のようなもの)があったのかまでは実際は微妙ですね…

ゴードン・シャープ少尉。劇中ではチャラい感じでしたが…実際はオーストラリアのTVカメラマンとして就職後、選抜徴兵されています。その後、ダントルーン陸軍士官学校に進み、訓練期間中に骨折を伴う事故を起こしています。優秀な士官だったと思います。

ハリー・スミス少佐に食ってかかるポール・ラージ二等兵。ニューサウスウェールズ州クーラ出身で5人兄妹でした。
1966年4月、戦死する前に家族に宛てた手紙には、こんな風に書かれていたようです。
「D中隊は最高の中隊です。とりわけ第12小隊は最高の小隊。大したことではないように思えるかもしれませんが、信じてください。これは、他の小隊が羨むような最高の評価です。僕たちは、その評価に応えなければなりませんが、僕の仲間たちならば問題ないと確信しています。」
ベトナム派遣前の訓練期間中に部隊の結束は深まっていたんじゃないですかね。
「べトコンはむやみに突撃はしなかったと思う…」

この評価も正しいかな。
解放戦線が突撃を繰り返す理由を、6RAR側からセリフで説明すれば良かったかも。

「あいつらは肉薄して我々の砲撃支援を無効にするつもりだ!」とか。

ニュージーランド161砲兵中隊とオーストラリア103&105砲兵が3時間半にわたって行った砲撃支援は105mm野砲3,198発。さらに米軍砲兵部隊が155mm野砲242発を加えています。
結果、解放戦線側はD中隊に対する肉薄攻撃が遅れて、甚大な損害を被ることになりました。

「108人VS2000人てホントかよ」

こちらは諸説あります…
オーストラリア軍が分析した解放戦線の兵員数 1,500~2,000人
解放戦線が公表している自軍の兵員数 700人
オーストラリア軍が公表した戦果 戦死245人・負傷者350人
解放戦線が公表した戦果 戦死/戦傷者500人・戦車21両撃破
オーストラリア軍が公表した損害 戦死18人・負傷24人
解放戦線側が公表した損害 戦死50人・負傷100人
オーストラリア軍が公表した戦果は、戦場に遺棄された死体や血痕を基に算出したようです。
しかし、砲撃の影響で遺体はバラバラになってしまい、必ずしも正確な数値ではありません。
解放戦線が公表した戦果も、オーストラリア軍側の被害と照らし合わせると大きな乖離があります。
特に戦車21両…M113ACAVは車長が戦死する損害を受けていますが…
「増援?誰が基地を守るのだね?
とか言ってる准将は考えすぎじゃね?」


以下は、ロンタンの戦闘後に捕虜になったNguyen Van Nuong(別名LOC)の証言。
『フォクトイ省での影響力を高めるため、D275連隊から抽出した3個大隊、D445大隊と医療支援部隊からなる部隊によりヌイダット(1ATF)を総攻撃する作戦計画だった。』
『我々はヌイダットの総兵力を3000人程度と推測していた。迫撃砲攻撃により6RARの一部を誘き寄せて、D275/D445の2個大隊で包囲して叩く。残りの兵力をもってヌイダットに突入する計画だった。』
『D445大隊は6RARの退路を断ち、包囲を完結させることが目的だった。しかし待伏せ攻撃の準備が完了しないまま、戦闘状態に突入してしまった。加えてヌイダットからの火力支援の規模が大きく、結果的に突入を断念せざるを得なかった。』
『オーストラリア軍は、これまで戦ってきたアメリカ軍や南ベトナム軍よりも、攻撃に対する反応が早かった。』
以下は時系列別の戦闘状況です。




かつてD445大隊副大隊長だった、Tran Minh Tam現ベトナム人民軍名誉少将は、戦後、現地を訪れた6RARベテラン(ビュイック軍曹ら)に対して語っています。
『貴方たちは我々の包囲を破り、戦術的に勝利した。しかし我々は最終的には南北ベトナムを統一しました。』
軍隊は階級に応じて視点が異なります。1ATF(オーストラリア軍第1統合任務部隊)司令官である、デヴィッド・ジャクソン准将は大局的な判断が求められ、かつ背負っている責任も大きいです。
第二次世界大戦から朝鮮戦争を経て、ベトナム戦争に従軍しているジャクソン准将は決して無能な指揮官ではありません。
劇中でもネガティブな評価になってしまっている、ジャクソン准将とタウンゼント中佐に関しては別の記事にまとめようかと思います…

出典:Danger Close: The Battle of Long Tan
Remembering 21 year old Private Paul Large

  

2023年03月30日

ベトナム戦争中のオーストラリア心理作戦(PSYOP)



"私はNVAの元伍長である○○です。私は○○年○月○日に××の共和国政府に帰順しました。政府は私を温かく迎えてくれました。南ベトナムでの生活は、北ベトナムよりもはるかに優れていることは明らかです。今は美味しい食事と、たっぷり睡眠をとっています。NVAの幹部と兵士の皆さんが帰順して、より良い生活を送れるように心から呼びかけます。"と、ベトナム語で記載されています。
「戦わずして人の兵を屈するは善の善なる者な り。」ベトナム戦争中は双方で心理戦が繰り広げられていました。
ベトナム派遣オーストラリア軍の第1統合任務部隊(1ATF)では、このような心理戦の重要さを理解していましたが、専門部隊は編制されていませんでした。
しかし、1966年8月のロンタンの闘いが解放戦線側の大勝利であった、と北ベトナム側の謀略放送でもあるラジオ・ハノイで放送されるなど、残念ながら対応は後手後手にまわってしまいました。
1ATFでも1970年4月30日、ようやく心理作戦専門部隊(1st psychological operations unit)が編制されたようです。

1st psychological operations unit


第1心理作戦部隊
大まかには航空班と地上班に分かれています。航空班は宣伝謀略用の印刷物(伝単)の投下が主な任務でした。
大型スピーカーで降伏勧告音声が流されましたが、使用機材のヘリコプターの騒音でかき消され、専ら印刷物の投下が行われるようになりました。
地上班の任務内容は多岐に亘っています。
・Cordon&Search(非常線と捜索)の支援。
・主要幹線道路の封鎖及び識別(VC容疑者の特定?)。
・武装宣撫班を支援して、チューホイプログラム(解放戦線/解放軍の転向を促す活動)を成功させる。
・以下の民間支援
統合市民活動 (ICAPS)
医療市民活動 (MedCAPS)
歯科市民活動 (DentCAPS)
衛生教育
広報活動(娯楽活動を含めた教育支援)

武装宣撫班(Armed Propaganda Teams)
解放戦線/解放軍からの転向者とベトナム語/英語の通訳、オーストラリア兵で構成された部隊です。
この部隊は、より直接的に現地住民に対して謀略活動を行っていたようです。ベトナム共和国情報部から提供されたリストに基づき、解放戦線/解放軍支配地域の村を巡り、宣撫活動を行いました。
転向者は解放戦線/解放軍の不条理や実情を訴え、彼らへの協力を止めるように促しました。
ただし、オーストラリア兵は転向者に対しては余り良い感情を抱いていなかったようではあります。

伝単
相手の支配地域に大量に散布し、厭戦気分を抱かせて降伏や転向を促すためのリーフレット。こちらは現地の言葉で「家族は貴方の帰郷を待っています」書かれています。
このようなリーフレットは基本的に以下のように分類されています。
・警告する 具体的な攻撃目標を告げて、相手の不安感を煽る
・脱走を促す 脱走の方法を具体的に記す
・相手の不利な情報を配信する 相手の幹部に対する情報(貴君の上官は後方で楽をしているぞ等)、君たちは敗北する、といった厭戦気分を煽る内容
・こちら側の大義を表明する 自軍の"崇高な目的"を宣伝する
・人道的支援 食糧や医療物資の提供地点を知らせる

『解放戦線諸君は、さらに深刻な後退を余儀なくされるだろう』

『8月11日、貴方たちは共和国軍と連合軍との戦闘で再び大きな被害を受けました。多くの負傷者を抱え、医薬品や食料も捕獲された。貴方たちは今、負傷者をどのように治療しているのでしょうか。彼らは丘の上に横たわり、苦痛を感じながら死を待つのだろうか。彼らと自分自身を救うために、共和国軍と連合軍関係者の元に結集してください。Chieu Hoi(チューホイ)には新しい人生がある。』


『家族との再会を果たし、治療を受ける。そして新しい生活。手遅れにならないように…』

『注意!この地域に住む人々へ。共和国政府は共産主義者の敵を排除するため、この地域を民間人の居住地として認可しないことを宣言しました。その結果、共和国軍と同盟国軍は、共産主義軍の食料源となりうる作物を廃棄処分しました。これ以上、ここにいてはいけません。共和国軍や同盟国軍を見かけたら、逃げてはいけません。手を挙げて兵士に手を振っても、危害を加えられることはありません。貴方たちは、この地域から来た他の多くの人々と同じように、新しい人生を与えられるでしょう。共和国政府はすべての人々の帰還を望んでおり、より良い安全な生活を再建するために貴方たちを支援します。政府の元へ来るか、スエンモックの兵士のところへ行くか。』
ベトナム共和国軍とアメリカ軍が協同で行った『チューホイ計画』は、結果的には10万人以上の離反者を発生させたとされています。
まさに「戦わずして人の兵を屈するは善の善なる者な り。」

出典:Australian Psyops in Vietnam 1970Australian War Memorial  

2023年03月24日

南ベトナム民族解放戦線/解放軍の歩兵戦術。


1965年11月、イア・ドラン渓谷にてアメリカ第1騎兵師団とベトナム解放軍第33連隊と第66連隊の大規模な軍事衝突が発生しました。ベトナム軍は、アメリカ軍の砲爆撃に大きな犠牲を出しつつも昼夜を問わず攻撃を続けましたが、最終的にはB-52による戦術爆撃や各種航空支援によって壊滅してしまいました。この戦い以降、解放戦線/解放軍(Giải phóng quân/GP)は大規模攻勢は控え、いわゆるゲリラ戦術に方向転換します。
さらにアメリカ軍の有する砲撃と航空支援を無効化すべく、相手の陣地に肉薄する"Nắm thắt lưng địch mà đánh"(敵のベルトを掴め)という戦術が行われるようになりました。攻撃は薄暮(陽が暮れ始める時間帯)に開始され、夜陰に紛れて撤退するようになりました。
アメリカ軍と同盟国軍は死傷者の発生(同士討ち)を恐れて、砲撃と航空支援を停止、兵力数に劣る解放戦線/解放軍でも戦闘を拮抗させるだけの効果がありました。

新しい戦術の研究
戦争初期の段階では、解放戦線/解放軍は人的資源の補充能力に乏しく、限られた兵力で勝利するために目標を明確にする必要がありました。ベトナム共和国軍と同盟国軍を、その地域からの撤退をさせるために出血(戦傷者)を強いることでした。
解放戦線/解放軍は戦闘後に分析を行い、敗北した場合は対抗手段の研究に務めました。前述した"敵のベルトを掴め"といった戦術も、ネットワークを通じて各地の部隊に広められました。


解放戦線/解放軍の攻撃原則"One slow, Four quick"
攻撃計画について。
常に相手に対しての数的有利性が求められ、かつ攻撃による有益なプロパガンダまでも考慮されていました。
攻撃計画のためには事前偵察が行われます。
相手の規模や編制と士気、兵站に転用可能な民間人協力者(党への忠誠度も徹底的に調査される)と、非協力的な民間人の有無。攻撃の障害となり得る要素を限りなく調べ上げられます。大規模な攻撃時には複数回の演習が行われ、最終的な計画立案まで6ヶ月を要した例もあります。
攻撃前には武器弾薬以外にも衛生器材も補給されました。これらの物資は相手に感知されることがないよう、厳重な情報統制が行われています。

解放戦線/解放軍の攻撃原則は、"One slow, Four quick"と分析されています。
Slow Plan 計画は熟考せよ。
Quick Advance 迅速に移動せよ。大部隊での移動は相手に捕捉される可能性を増加させてしまう。
部隊を分割して攻撃発起地点に迅速に移動する。
Quick Attack 急襲。攻撃は分単位で統制され、事前計画に則って火力を最大集中する。
Quick Clearance 速やかな部隊再編制。攻撃後は死傷者の確認、武器の数量点検(戦場に遺棄した武器が無いか)、戦場でも混乱が発生しないよう、これらも周到に計画された。
Quick Withdrawal 速やかな撤収。攻撃後は再び小グループに分かれて、事前に決められた集結地点へと移動する。相手からの追跡を避けるために仕掛け爆弾を設置したり、阻止部隊を置いて待ち伏せ攻撃を行う場合もある。

ベトナム戦争映画や漫画では"ベトコンの人海戦術"が描写されています。たしかに相手に対して数的有利が見られた場合は、そのような戦術が見られます。ただし、人的資源の補充が困難な地域(ベトナム南部)では、また違った戦術がとられています。
それらに関しては別の機会で…
出典:
Nắm thắt lưng địch mà đánh
イア・ドラン渓谷の戦い
NLF and PAVN battle tactics  

2023年03月22日

Cordon&Search(非常線と捜索)


Cordon&Search(非常線と捜索)のため、住民を非常線外に誘導中の5RAR(第5歩兵大隊)のオーストラリア兵。
オーストラリア軍は責任担当管区内の村落や住宅を捜査する際には、住民を非常線外に誘導しています。
これはオーストラリア兵のストレス軽減と、住民との無用な軋轢を発生させないことが理由と考えられます。

無人となった住宅を捜索中のオーストラリア兵。


非常線内で住民たちの身分確認を行うオーストラリア兵。オーストラリア軍情報部、南ベトナム地方偵察隊(PRU)からの情報により目星をつけられたベトコン容疑者を逮捕する場合もあります。


ベトコン容疑者を逮捕し、ベトナム共和国軍に引渡すオーストラリア兵…彼女の運命はどうなったんでしょうか…身分証の照会以外にも、非常線外には戦闘部隊が配置されており、捜索から逃れた住民を(容疑者も)逮捕することがあります。

非常線内で住民に食糧を配給。住民との関係を深め、ベトコンの情報を得るのは治安戦では重要です。

村落外への移動が出来なかった老女を診察する、大隊付き軍医。
近代的な医療行為も民心掌握の一環です。

こちらは捜索任務中に逮捕され尋問を待つベトコン容疑者の描画。手前の人物からは不安を感じ、奥の人物はどこか決然とした表情が受け取れます…
相手の領土を奪い、首都を陥落させるような通常の戦争とは異なり、治安を継続させる任務には達成感のようなものもありません。
もちろん、兵士以外の民間人も相当なストレスが鬱積したと思います。

出典:Australian War Memorial

  

2023年03月20日

ベトナム派遣オーストラリア軍


「オーストラリア軍歩兵大隊は、ベトナムで最も安全な戦闘部隊と評されている。多くのアメリカ兵の死者を出した致命的な待ち伏せに身をさらすことなく、オーストラリア兵がベトコンを追跡することができることを示したと広く考えられています。オーストラリア軍の定期哨戒部隊は、密林の小路や開けた地形を避けて、竹藪や絡まった葉っぱの中を慎重に、静かに道を選びます...オーストラリア兵と密林内を行動を共にするのは、イライラするような経験です。哨戒部隊は、一度に数歩前進し、立ち止まって耳を傾け、また前進する。1マイル四方の地形を掃討するのに9時間も歩き続けます…」1966年、オーストラリア軍に随伴した戦場記者ジェラルド・ストーン氏は、こうコメントしています。

オーストラリア軍の基本的な軍事行動は、担当責任管区内を常に哨戒し続けることでした。一般的な兵士は12ヶ月の任期中、250日程度は基地から出撃し定期哨戒任務に参加したそうです。哨戒任務は3-4週間、これらの地道な作戦はベトコンの移動と住民への接触を困難にしました。
一部のベトコン指揮官にとって、オーストラリア軍の戦術が効果的であったことに疑いの余地はありませんでした。
元ベトコン指揮官は、次のように述べていると伝えられています。
「オーストラリア兵はアメリカ兵よりも忍耐強く、対ゲリラ戦術を理解しており、伏撃(アンブッシュ)にも長けていました。彼らは航空支援を要請することなく、我々と直接対峙して戦闘を続けることを好みました。我々は彼らの戦術を恐れていました。」

「オーストラリア兵たちは練度が高く、常に民間人を戦闘に巻き込まないように努めて、ベトコンのみを相手に闘いました。一般的にオーストラリア兵による民間人への被害は稀でした。」とオーストラリアの戦場カメラマン、ニール・デービス氏は語っています。


村落内捜索のため、住民を一時避難させている1RAR(オーストラリア軍第1歩兵大隊)の兵士たち。
オーストラリア軍はアメリカ軍とは異なり、ベトコンの拠点となり得る村落やインフラ(井戸や道路等)を"排除"するような戦術は行いませんでした。
たとえ潜在的なベトコンのシンパや温床になり得る可能性があっても、このような戦術は現地住民との関係性を崩壊させてしまうからです。

オーストラリア軍は英連邦軍の一員としてマラヤ危機やボルネオ動乱の共産匪賊鎮圧作戦に参加しています。
ベトナム派遣以前より、密林内での行動術と現地住民との関係を重視する戦術を確立していました。

Search & destroy=S&D(索敵殲滅作戦)
索敵殲滅作戦は1948年に発生したマラヤ動乱において、イギリス軍及び英連邦軍によって実施されました。
作戦実施当初は、共産匪賊の温床と成り得る村落の焼却や無関係な住民の殺傷事件も発生しています。
これらの行動は、かえって共産匪賊の活動を有利にしてしまいました。
いわゆる非対称戦については、かつての我が国でも研究が為されていました。

日本陸軍でも現地情報の収集と民心掌握の重要性が理解されていたが、人員や物資の不足により成功しませんでした。
マラヤ動乱は、共産匪賊よりも英連合軍が人員も物資も圧倒した結果、鎮圧が成功しました。

アメリカ軍の索敵殲滅作戦
ベトナム派遣軍副司令官、ウィリアム・ウェストモーランド将軍によるアメリカ軍によるベトナムでの基本的な軍事作戦は下記の3段階から成っていました。
1.ベトコンの捜索と捕捉(Search)
2.ベトコンの殲滅(Destroy)
3.ベトナム共和国軍主導による治安維持(Clear & Secure)
本来はベトコンを発見次第に攻撃殲滅するのではありません。ベトコンを捕捉し、自軍に有利な地形へ誘導して大兵力で勝敗を決する作戦です。




アメリカ軍は、ベトコンの温床となる可能性がある原住民の強制排除、他の地域への移住を実施しました。
オーストラリア軍が行わなかった、備蓄食糧と家屋の焼却も行われています。
村落の焼却(Zippo mission)と呼称されていました。
これらはオーストラリア軍とは全く相いれない戦術でした。
ウェストモーランド将軍も1ATF(1st Australian Task Force/第1オーストラリア統合任務部隊)が「戦闘に積極的ではない」とティム・ビンセント少将(ベトナム派遣オーストラリア軍総司令官)に伝えています。
アメリカ軍は迅速な兵力の展開と強力な火力による敵の撃滅、その後はベトナム共和国軍(南ベトナム軍)による安定化を図るという指針に基づいています。しかし、これらも限られた兵力数であるオーストラリア軍にとっては不可能でした。

ベトナム戦争中のアメリカ兵とオーストラリア兵
アメリカ軍上層部はオーストラリア軍に対し戦争への積極性(Get Up and Go)、敢闘精神が足りないように感じていました。
オーストラリア軍はベトナム以前から密林での軍事作戦と治安維持を経験していたので、アメリカ軍の戦闘能力を見下していました。
アメリカ軍が重要視していたBody count(確認殺害戦果)に関しては、オーストラリア軍では"意味のないこと"として捉えられていました。
※確認殺害戦果を重要視した結果、虐殺事件に繋がっていったとも考えられています。
アメリカ軍は様々な出身地から集められた人員で編制されています。そのルーツ(イタリア系やユダヤ系、アフリカ系など)も様々です。
オーストラリア軍は人員数は少ないものの、基本的に一定のコミュニティ出身者を中心に編制されており、郷土的な結束も強かったとされています。
ベトナム全土が共産化した場合の危機感も、地理的に遠く離れたアメリカとオーストラリアとでは全く異なります。
ドミノ理論参照

実はオーストラリア兵とアメリカ兵の確執は第二次世界大戦中から存在しています。
太平洋戦争時にオーストラリア本土に進駐したアメリカ兵達とオーストラリア兵と市民による衝突(ブリスベン暴動など)が発生しています。
アメリカ人との文化的な違い(有色系アメリカ人に対する態度や女性の扱い)、給与格差や食糧配分等が原因だったようです。
アメリカとオーストラリアは政府間の結びつきは強固でしたが、兵士や市民においては残念ながらそうでもなかったようです。

オーストラリアのTVシリーズ「ベトナム」でもアメリカ兵に対する描写は非常に辛辣です。※「ベトナム」は編集されて邦題「陽のあたる街角」としてDVD化されています。

ベトコンとオーストラリア軍
残念ながらベトナムにおけるオーストラリア軍の作戦は戦略的に成功したとは言えません。
ベトコンはオーストラリア軍との戦闘を悉く回避していたのが要因と考えられています。決定的な勝利を得ることはできませんでした。
また、地域住民もやがては去ってしまうオーストラリア軍に対しては冷ややかな態度だったんでしょう…
1ATF(オーストラリア軍 第1統合任務部隊)が撤退準備を進めるとともに、担当管区であったフォクトイ省でのベトコンの活動が活発化しました。
村落やインフラを排除し、焦土化してしまわなかったのが仇になったのかもしれません。
アメリカ軍もオーストラリア軍の独特の戦術を吸収することもありませんでした。
1962年から1972年までの10年に及ぶベトナム派遣期間中に、オーストラリアが得たのは莫大な戦費と521名の戦死者、3,000名以上の負傷者、さらに退役軍人に対する不当な評価や徴兵制に端を発した社会的な分断…オーストラリアにとってもベトナム戦争は大きな影を落とすことになりました。

出典:Military history of Australia during the Vietnam War
「華北における日本軍の治安戦」  

2023年02月16日

1964年頃のSF/CIDG/ARVN/AATTVの装備について

1964年頃のSF/CIDG/ARVN/AATTVの装備について。
※下の画像は1964年以前ですね…

戦闘装備はM1956LCEが基本となります。
M1956 Load Carrying Equipment参考サイト
※歩兵装備は正しい装着状況でないと本来の機能は発揮しません。翻訳して一読すると良いでしょう。"昔の装備は使い難い"と言う人が稀にいらっしゃいますが、適切な装備状態か確認してみてください。

年代設定は1964年です。M1967等の装備は使用できませんのでご注意ください。
今回、南側はCIDGキャンプ外郭陣地防衛というシチュエーションとします。
Eツール(携帯スコップ)やフィールドパック(バックパック)は省略しても問題ありません。
M1956以外の装備について。

ベトナム共和国軍(ARVN)の旧型装備(WW2後期OD#7カラーのM1945)も含めて使用OKです。
ただし何でもかんでも組み合わせたり、使用はできませんのでご注意ください。
装備もリプロ推奨です。メーカーは問いませんが実用に耐えうる強度のモノを選びましょう。
安かろう悪かろうアイテムが混在していますので注意してください。
これらの装備はビクトリーショー等の物販イベント会場で購入すると良いでしょう。
ピストルベルト・水筒・アモポウチ・ファーストエイドポウチ
これらは必須装備とします。

特にファーストエイドポウチはデッドマーカーを収納する必要があります。水筒も状況中に水分補給の為、必須となります。
※状況を見ながら適時休憩は設けます。

背嚢・ラックサック・バックボード等について


RTO(無線手)、戦闘パトロール時を実施したい場合は使用制限はありません。
※エアソフトゲーム時には、これらに被弾した場合もヒット扱いとなります。

M1956装備については「知ってるつもり」の方も多いです。
今回はある程度まで許容しますが、厳密には使用できないようなモノもあります。現在の感覚で空いたスペースに装備を追加しないよう、心がけてください。
この機会に調べてみるのも良いかもしれません。
以下は参考サイトのリンクです。
M-1956 Load-Carrying Equipment
VietnamGear.com M1945 Load Carrying Equipment (Advisory Era)
VietnamGear.com M1956 Individual Equipment Belt
  

Posted by Afghan1989 at 13:28Comments(0)装備ベトナム戦争