2022年01月24日

南ベトナム解放民族戦線(解放軍)について。

南ベトナム解放民族戦線(解放軍)について。

1975年、サイゴン陥落時の解放軍。ムウコーイ(サンヘルメット)の帽章、襟元の階級章こそ無いものの、その姿はベトナム人民軍兵士と変わりはありません。
正規軍事訓練を受けているベトナム人民軍兵士たちは、階級章を外して南ベトナムに浸透し、南北ベトナム統一のために闘っていました。彼らは解放軍と呼ばれています。
南ベトナム解放民族戦線(解放軍)について。


南ベトナム解放民族戦線(解放軍)について。

迫撃砲訓練中の解放戦線兵士の写真です。
写真内の武装した兵士と、迫撃砲照準器ケースを下げている兵士は、北緯17°線を越えて解放戦線に合流した解放軍(ベトナム人民軍)兵士と思われます。
南ベトナム解放民族戦線(解放軍)について。

画像左側で立っている(背面を見せている)人物も解放軍教官でしょうか。
ベトナム民主共和国(北ベトナム)は南北ベトナムを共産主義国家として統一することを目標としていました。解放戦線に対して重火器の供与や各種訓練を施しています。
南ベトナム解放民族戦線(解放軍)について。

この写真の武装している兵士は執銃所作から見て、人民軍で訓練を受けた人間でしょう。
彼ら戦闘訓練だけではなく、村落をまわっては宣撫を行い共産主義思想を広める活動も行っています。
南ベトナム解放民族戦線(解放軍)について。

こちらはロンタンの闘いの戦況地図。6RAR(オーストラリア軍第6歩兵大隊)D中隊と交戦しているD275(解放戦線275大隊)が分かるでしょうか。
南ベトナム解放民族戦線(解放軍)について。

『デンジャー・クロース 極限着弾』スチールからですが、D中隊と最初に接敵したD275と思われる兵士たち。
実は通常の解放戦線ではなく、ベトナム人民軍第5師団から抽出された人員で構成された、1個連隊規模の部隊(2500人)とされています。
※捕虜の証言によります。
北側の作戦としては、前日から1ATF(オーストラリア軍基地)に対する迫撃砲攻撃を行い、歩兵大隊の一部を基地から誘き寄せて、その隙にD445(解放戦線445大隊・350人)を突入させる予定だったようです。※同じく捕虜からの証言。
しかし、D中隊は砲兵支援を受けつつ敢闘し、D275に多大な損害を与えることになりました。
南ベトナム解放民族戦線(解放軍)について。

ロンタンでの戦闘後に集積された各種小火器類。通常の解放戦線部隊が戦場に武器を残置してしまうことは、比較的に稀なケースでした。
オーストラリア軍の戦闘報告書には
AK47・33挺
RPD・7挺
SKS・5挺
RPG2発射筒・4(弾頭28発)
57mm無反動砲・2門
各種弾薬10000発以上。
M1ライフルやPPsh等は比較的に少量。
1ATFへの突入を諦めて、6RAR/D中隊の後背に回り込んだD445も深刻な被害を受けました。しかし部隊は戦場からの離脱には辛くも成功しています。
そもそも南北ベトナムでは言語や行動原理も異なっており、軍事作戦において重要な部隊間の協調が困難になってしまう場合がありました。
南ベトナム解放民族戦線(解放軍)について。

甚大な損害を受けた解放戦線及び解放軍ですが、同地区においてベトナム民主共和国主導による新設部隊、D440(解放戦線440大隊)を編制します。
しかしD440はオーストラリア/ニュージーランド部隊にコテンパンにされてしまい、結局のところ残余がD445に吸収されています。
その後、南ベトナム出身者で編制された解放戦線の各部隊は、北ベトナム主導で行われたテト(旧正月)攻勢でも矢面に立たされ、その戦力や発言力を削ぎ落とされていきます。
しかし、D445は宿敵であるオーストラリア/ニュージーランド軍との幾多に上る戦闘を潜り抜け、南北ベトナム統一後も名誉部隊として存続していきます。
自分も全く意識していませんでしたが、北側陣営も一枚岩ではなく、様々な政治闘争や南北ベトナム人による考え方の違いがあったんですね…
その辺も頭の片隅に入れておいて、戦争映画なんかを鑑賞するのも一考です。
参考:Wikipedia




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