2023年03月30日
ベトナム戦争中のオーストラリア心理作戦(PSYOP)


"私はNVAの元伍長である○○です。私は○○年○月○日に××の共和国政府に帰順しました。政府は私を温かく迎えてくれました。南ベトナムでの生活は、北ベトナムよりもはるかに優れていることは明らかです。今は美味しい食事と、たっぷり睡眠をとっています。NVAの幹部と兵士の皆さんが帰順して、より良い生活を送れるように心から呼びかけます。"と、ベトナム語で記載されています。
「戦わずして人の兵を屈するは善の善なる者な り。」ベトナム戦争中は双方で心理戦が繰り広げられていました。
ベトナム派遣オーストラリア軍の第1統合任務部隊(1ATF)では、このような心理戦の重要さを理解していましたが、専門部隊は編制されていませんでした。
しかし、1966年8月のロンタンの闘いが解放戦線側の大勝利であった、と北ベトナム側の謀略放送でもあるラジオ・ハノイで放送されるなど、残念ながら対応は後手後手にまわってしまいました。
1ATFでも1970年4月30日、ようやく心理作戦専門部隊(1st psychological operations unit)が編制されたようです。

1st psychological operations unit

第1心理作戦部隊
大まかには航空班と地上班に分かれています。航空班は宣伝謀略用の印刷物(伝単)の投下が主な任務でした。
大型スピーカーで降伏勧告音声が流されましたが、使用機材のヘリコプターの騒音でかき消され、専ら印刷物の投下が行われるようになりました。
地上班の任務内容は多岐に亘っています。
・Cordon&Search(非常線と捜索)の支援。
・主要幹線道路の封鎖及び識別(VC容疑者の特定?)。
・武装宣撫班を支援して、チューホイプログラム(解放戦線/解放軍の転向を促す活動)を成功させる。
・以下の民間支援
統合市民活動 (ICAPS)
医療市民活動 (MedCAPS)
歯科市民活動 (DentCAPS)
衛生教育
広報活動(娯楽活動を含めた教育支援)

武装宣撫班(Armed Propaganda Teams)
解放戦線/解放軍からの転向者とベトナム語/英語の通訳、オーストラリア兵で構成された部隊です。
この部隊は、より直接的に現地住民に対して謀略活動を行っていたようです。ベトナム共和国情報部から提供されたリストに基づき、解放戦線/解放軍支配地域の村を巡り、宣撫活動を行いました。
転向者は解放戦線/解放軍の不条理や実情を訴え、彼らへの協力を止めるように促しました。
ただし、オーストラリア兵は転向者に対しては余り良い感情を抱いていなかったようではあります。

伝単
相手の支配地域に大量に散布し、厭戦気分を抱かせて降伏や転向を促すためのリーフレット。こちらは現地の言葉で「家族は貴方の帰郷を待っています」書かれています。このようなリーフレットは基本的に以下のように分類されています。
・警告する 具体的な攻撃目標を告げて、相手の不安感を煽る
・脱走を促す 脱走の方法を具体的に記す
・相手の不利な情報を配信する 相手の幹部に対する情報(貴君の上官は後方で楽をしているぞ等)、君たちは敗北する、といった厭戦気分を煽る内容
・こちら側の大義を表明する 自軍の"崇高な目的"を宣伝する
・人道的支援 食糧や医療物資の提供地点を知らせる

『解放戦線諸君は、さらに深刻な後退を余儀なくされるだろう』

『8月11日、貴方たちは共和国軍と連合軍との戦闘で再び大きな被害を受けました。多くの負傷者を抱え、医薬品や食料も捕獲された。貴方たちは今、負傷者をどのように治療しているのでしょうか。彼らは丘の上に横たわり、苦痛を感じながら死を待つのだろうか。彼らと自分自身を救うために、共和国軍と連合軍関係者の元に結集してください。Chieu Hoi(チューホイ)には新しい人生がある。』


『家族との再会を果たし、治療を受ける。そして新しい生活。手遅れにならないように…』

『注意!この地域に住む人々へ。共和国政府は共産主義者の敵を排除するため、この地域を民間人の居住地として認可しないことを宣言しました。その結果、共和国軍と同盟国軍は、共産主義軍の食料源となりうる作物を廃棄処分しました。これ以上、ここにいてはいけません。共和国軍や同盟国軍を見かけたら、逃げてはいけません。手を挙げて兵士に手を振っても、危害を加えられることはありません。貴方たちは、この地域から来た他の多くの人々と同じように、新しい人生を与えられるでしょう。共和国政府はすべての人々の帰還を望んでおり、より良い安全な生活を再建するために貴方たちを支援します。政府の元へ来るか、スエンモックの兵士のところへ行くか。』
ベトナム共和国軍とアメリカ軍が協同で行った『チューホイ計画』は、結果的には10万人以上の離反者を発生させたとされています。
まさに「戦わずして人の兵を屈するは善の善なる者な り。」
出典:Australian Psyops in Vietnam 1970Australian War Memorial
2023年03月28日
MILITARY HARBOR イタリア生地/M44戦闘服 続き
2022年に購入したMILITARY HARBOR イタリア生地/M44戦闘服ですが、
『ベルリンの戦い~ゼーロウ高地とキュストリン~』で着用してからは、長らく放置プレイ。
SS第500突撃大隊の対戦車中隊で参加OKなイベントは、そうあるわけでもないし、ちょっと忙しかったし。
最近は早めの身辺整理をしているので、あまり買い物をしないようにしていましたが…
アメリカの軍装品店「AT THE FRONT」に末期型戦闘服ボタンが入荷していました…!

実物は見たことなかったし。塗装色もPanzer Grauなのだ。
この辺は推測でしかないけど、戦闘車両の基本塗装色が1943年から変更になったので、Panzer Grauは大量に残っていたんじゃないかな。

マジマジとPanzer Grauオリジナル塗装色を眺める。プラモデル用塗料では各社からPanzer Grau(ジャーマングレー)は販売されている。あくまでも感覚でしかないけど、タミヤのジャーマングレーが近いかな…

そんな感慨にふけりつつボタン交換。茶系のフィールドグレー44なんかだと、もうちょっと映えるんじゃないかな…
ミリタリーホビーもファストファッション化して、1シーズン着たらイベントやネットオークションなんかで売っちゃう人も増えたような気もします。
でも、あちこち弄ってやれば愛着も沸くんじゃないですかね。
昔からM44戦闘服は好きだったんだけど、満足できるクオリティのリプロダクトがなかった。
ようやく良い感じのが出てきた頃には…
野外で遊ぶモチベーションが低下…何とかしなきゃいかんです。
『ベルリンの戦い~ゼーロウ高地とキュストリン~』で着用してからは、長らく放置プレイ。
SS第500突撃大隊の対戦車中隊で参加OKなイベントは、そうあるわけでもないし、ちょっと忙しかったし。
最近は早めの身辺整理をしているので、あまり買い物をしないようにしていましたが…
アメリカの軍装品店「AT THE FRONT」に末期型戦闘服ボタンが入荷していました…!

LATE WAR TUNIC BUTTON, UNISSUED
実は前から欲しかったので速攻で購入。実物は見たことなかったし。塗装色もPanzer Grauなのだ。
この辺は推測でしかないけど、戦闘車両の基本塗装色が1943年から変更になったので、Panzer Grauは大量に残っていたんじゃないかな。

マジマジとPanzer Grauオリジナル塗装色を眺める。プラモデル用塗料では各社からPanzer Grau(ジャーマングレー)は販売されている。あくまでも感覚でしかないけど、タミヤのジャーマングレーが近いかな…

そんな感慨にふけりつつボタン交換。茶系のフィールドグレー44なんかだと、もうちょっと映えるんじゃないかな…
ミリタリーホビーもファストファッション化して、1シーズン着たらイベントやネットオークションなんかで売っちゃう人も増えたような気もします。
でも、あちこち弄ってやれば愛着も沸くんじゃないですかね。
昔からM44戦闘服は好きだったんだけど、満足できるクオリティのリプロダクトがなかった。
ようやく良い感じのが出てきた頃には…
野外で遊ぶモチベーションが低下…何とかしなきゃいかんです。
2023年03月24日
南ベトナム民族解放戦線/解放軍の歩兵戦術。

1965年11月、イア・ドラン渓谷にてアメリカ第1騎兵師団とベトナム解放軍第33連隊と第66連隊の大規模な軍事衝突が発生しました。ベトナム軍は、アメリカ軍の砲爆撃に大きな犠牲を出しつつも昼夜を問わず攻撃を続けましたが、最終的にはB-52による戦術爆撃や各種航空支援によって壊滅してしまいました。この戦い以降、解放戦線/解放軍(Giải phóng quân/GP)は大規模攻勢は控え、いわゆるゲリラ戦術に方向転換します。
さらにアメリカ軍の有する砲撃と航空支援を無効化すべく、相手の陣地に肉薄する"Nắm thắt lưng địch mà đánh"(敵のベルトを掴め)という戦術が行われるようになりました。攻撃は薄暮(陽が暮れ始める時間帯)に開始され、夜陰に紛れて撤退するようになりました。
アメリカ軍と同盟国軍は死傷者の発生(同士討ち)を恐れて、砲撃と航空支援を停止、兵力数に劣る解放戦線/解放軍でも戦闘を拮抗させるだけの効果がありました。

新しい戦術の研究
戦争初期の段階では、解放戦線/解放軍は人的資源の補充能力に乏しく、限られた兵力で勝利するために目標を明確にする必要がありました。ベトナム共和国軍と同盟国軍を、その地域からの撤退をさせるために出血(戦傷者)を強いることでした。解放戦線/解放軍は戦闘後に分析を行い、敗北した場合は対抗手段の研究に務めました。前述した"敵のベルトを掴め"といった戦術も、ネットワークを通じて各地の部隊に広められました。


解放戦線/解放軍の攻撃原則"One slow, Four quick"
攻撃計画について。常に相手に対しての数的有利性が求められ、かつ攻撃による有益なプロパガンダまでも考慮されていました。
攻撃計画のためには事前偵察が行われます。
相手の規模や編制と士気、兵站に転用可能な民間人協力者(党への忠誠度も徹底的に調査される)と、非協力的な民間人の有無。攻撃の障害となり得る要素を限りなく調べ上げられます。大規模な攻撃時には複数回の演習が行われ、最終的な計画立案まで6ヶ月を要した例もあります。
攻撃前には武器弾薬以外にも衛生器材も補給されました。これらの物資は相手に感知されることがないよう、厳重な情報統制が行われています。

解放戦線/解放軍の攻撃原則は、"One slow, Four quick"と分析されています。
Slow Plan 計画は熟考せよ。
Quick Advance 迅速に移動せよ。大部隊での移動は相手に捕捉される可能性を増加させてしまう。
部隊を分割して攻撃発起地点に迅速に移動する。
Quick Attack 急襲。攻撃は分単位で統制され、事前計画に則って火力を最大集中する。
Quick Clearance 速やかな部隊再編制。攻撃後は死傷者の確認、武器の数量点検(戦場に遺棄した武器が無いか)、戦場でも混乱が発生しないよう、これらも周到に計画された。
Quick Withdrawal 速やかな撤収。攻撃後は再び小グループに分かれて、事前に決められた集結地点へと移動する。相手からの追跡を避けるために仕掛け爆弾を設置したり、阻止部隊を置いて待ち伏せ攻撃を行う場合もある。

ベトナム戦争映画や漫画では"ベトコンの人海戦術"が描写されています。たしかに相手に対して数的有利が見られた場合は、そのような戦術が見られます。ただし、人的資源の補充が困難な地域(ベトナム南部)では、また違った戦術がとられています。
それらに関しては別の機会で…
出典:
Nắm thắt lưng địch mà đánh
イア・ドラン渓谷の戦い
NLF and PAVN battle tactics
2023年03月22日
Cordon&Search(非常線と捜索)

Cordon&Search(非常線と捜索)のため、住民を非常線外に誘導中の5RAR(第5歩兵大隊)のオーストラリア兵。
オーストラリア軍は責任担当管区内の村落や住宅を捜査する際には、住民を非常線外に誘導しています。
これはオーストラリア兵のストレス軽減と、住民との無用な軋轢を発生させないことが理由と考えられます。

無人となった住宅を捜索中のオーストラリア兵。


非常線内で住民たちの身分確認を行うオーストラリア兵。オーストラリア軍情報部、南ベトナム地方偵察隊(PRU)からの情報により目星をつけられたベトコン容疑者を逮捕する場合もあります。


ベトコン容疑者を逮捕し、ベトナム共和国軍に引渡すオーストラリア兵…彼女の運命はどうなったんでしょうか…身分証の照会以外にも、非常線外には戦闘部隊が配置されており、捜索から逃れた住民を(容疑者も)逮捕することがあります。

非常線内で住民に食糧を配給。住民との関係を深め、ベトコンの情報を得るのは治安戦では重要です。

村落外への移動が出来なかった老女を診察する、大隊付き軍医。
近代的な医療行為も民心掌握の一環です。

こちらは捜索任務中に逮捕され尋問を待つベトコン容疑者の描画。手前の人物からは不安を感じ、奥の人物はどこか決然とした表情が受け取れます…
相手の領土を奪い、首都を陥落させるような通常の戦争とは異なり、治安を継続させる任務には達成感のようなものもありません。
もちろん、兵士以外の民間人も相当なストレスが鬱積したと思います。
出典:Australian War Memorial
2023年03月20日
ベトナム派遣オーストラリア軍

「オーストラリア軍歩兵大隊は、ベトナムで最も安全な戦闘部隊と評されている。多くのアメリカ兵の死者を出した致命的な待ち伏せに身をさらすことなく、オーストラリア兵がベトコンを追跡することができることを示したと広く考えられています。オーストラリア軍の定期哨戒部隊は、密林の小路や開けた地形を避けて、竹藪や絡まった葉っぱの中を慎重に、静かに道を選びます...オーストラリア兵と密林内を行動を共にするのは、イライラするような経験です。哨戒部隊は、一度に数歩前進し、立ち止まって耳を傾け、また前進する。1マイル四方の地形を掃討するのに9時間も歩き続けます…」1966年、オーストラリア軍に随伴した戦場記者ジェラルド・ストーン氏は、こうコメントしています。

オーストラリア軍の基本的な軍事行動は、担当責任管区内を常に哨戒し続けることでした。一般的な兵士は12ヶ月の任期中、250日程度は基地から出撃し定期哨戒任務に参加したそうです。哨戒任務は3-4週間、これらの地道な作戦はベトコンの移動と住民への接触を困難にしました。
一部のベトコン指揮官にとって、オーストラリア軍の戦術が効果的であったことに疑いの余地はありませんでした。
元ベトコン指揮官は、次のように述べていると伝えられています。
「オーストラリア兵はアメリカ兵よりも忍耐強く、対ゲリラ戦術を理解しており、伏撃(アンブッシュ)にも長けていました。彼らは航空支援を要請することなく、我々と直接対峙して戦闘を続けることを好みました。我々は彼らの戦術を恐れていました。」

「オーストラリア兵たちは練度が高く、常に民間人を戦闘に巻き込まないように努めて、ベトコンのみを相手に闘いました。一般的にオーストラリア兵による民間人への被害は稀でした。」とオーストラリアの戦場カメラマン、ニール・デービス氏は語っています。


村落内捜索のため、住民を一時避難させている1RAR(オーストラリア軍第1歩兵大隊)の兵士たち。
オーストラリア軍はアメリカ軍とは異なり、ベトコンの拠点となり得る村落やインフラ(井戸や道路等)を"排除"するような戦術は行いませんでした。
たとえ潜在的なベトコンのシンパや温床になり得る可能性があっても、このような戦術は現地住民との関係性を崩壊させてしまうからです。

オーストラリア軍は英連邦軍の一員としてマラヤ危機やボルネオ動乱の共産匪賊鎮圧作戦に参加しています。
ベトナム派遣以前より、密林内での行動術と現地住民との関係を重視する戦術を確立していました。

Search & destroy=S&D(索敵殲滅作戦)
索敵殲滅作戦は1948年に発生したマラヤ動乱において、イギリス軍及び英連邦軍によって実施されました。作戦実施当初は、共産匪賊の温床と成り得る村落の焼却や無関係な住民の殺傷事件も発生しています。
これらの行動は、かえって共産匪賊の活動を有利にしてしまいました。
いわゆる非対称戦については、かつての我が国でも研究が為されていました。

日本陸軍でも現地情報の収集と民心掌握の重要性が理解されていたが、人員や物資の不足により成功しませんでした。
マラヤ動乱は、共産匪賊よりも英連合軍が人員も物資も圧倒した結果、鎮圧が成功しました。

アメリカ軍の索敵殲滅作戦
ベトナム派遣軍副司令官、ウィリアム・ウェストモーランド将軍によるアメリカ軍によるベトナムでの基本的な軍事作戦は下記の3段階から成っていました。1.ベトコンの捜索と捕捉(Search)
2.ベトコンの殲滅(Destroy)
3.ベトナム共和国軍主導による治安維持(Clear & Secure)
本来はベトコンを発見次第に攻撃殲滅するのではありません。ベトコンを捕捉し、自軍に有利な地形へ誘導して大兵力で勝敗を決する作戦です。


アメリカ軍は、ベトコンの温床となる可能性がある原住民の強制排除、他の地域への移住を実施しました。
オーストラリア軍が行わなかった、備蓄食糧と家屋の焼却も行われています。
村落の焼却(Zippo mission)と呼称されていました。
これらはオーストラリア軍とは全く相いれない戦術でした。
ウェストモーランド将軍も1ATF(1st Australian Task Force/第1オーストラリア統合任務部隊)が「戦闘に積極的ではない」とティム・ビンセント少将(ベトナム派遣オーストラリア軍総司令官)に伝えています。
アメリカ軍は迅速な兵力の展開と強力な火力による敵の撃滅、その後はベトナム共和国軍(南ベトナム軍)による安定化を図るという指針に基づいています。しかし、これらも限られた兵力数であるオーストラリア軍にとっては不可能でした。

ベトナム戦争中のアメリカ兵とオーストラリア兵
アメリカ軍上層部はオーストラリア軍に対し戦争への積極性(Get Up and Go)、敢闘精神が足りないように感じていました。
オーストラリア軍はベトナム以前から密林での軍事作戦と治安維持を経験していたので、アメリカ軍の戦闘能力を見下していました。
アメリカ軍が重要視していたBody count(確認殺害戦果)に関しては、オーストラリア軍では"意味のないこと"として捉えられていました。
※確認殺害戦果を重要視した結果、虐殺事件に繋がっていったとも考えられています。
アメリカ軍は様々な出身地から集められた人員で編制されています。そのルーツ(イタリア系やユダヤ系、アフリカ系など)も様々です。
オーストラリア軍は人員数は少ないものの、基本的に一定のコミュニティ出身者を中心に編制されており、郷土的な結束も強かったとされています。
ベトナム全土が共産化した場合の危機感も、地理的に遠く離れたアメリカとオーストラリアとでは全く異なります。
※ドミノ理論参照

実はオーストラリア兵とアメリカ兵の確執は第二次世界大戦中から存在しています。
太平洋戦争時にオーストラリア本土に進駐したアメリカ兵達とオーストラリア兵と市民による衝突(ブリスベン暴動など)が発生しています。
アメリカ人との文化的な違い(有色系アメリカ人に対する態度や女性の扱い)、給与格差や食糧配分等が原因だったようです。
アメリカとオーストラリアは政府間の結びつきは強固でしたが、兵士や市民においては残念ながらそうでもなかったようです。

オーストラリアのTVシリーズ「ベトナム」でもアメリカ兵に対する描写は非常に辛辣です。※「ベトナム」は編集されて邦題「陽のあたる街角」としてDVD化されています。

ベトコンとオーストラリア軍
残念ながらベトナムにおけるオーストラリア軍の作戦は戦略的に成功したとは言えません。ベトコンはオーストラリア軍との戦闘を悉く回避していたのが要因と考えられています。決定的な勝利を得ることはできませんでした。
また、地域住民もやがては去ってしまうオーストラリア軍に対しては冷ややかな態度だったんでしょう…
1ATF(オーストラリア軍 第1統合任務部隊)が撤退準備を進めるとともに、担当管区であったフォクトイ省でのベトコンの活動が活発化しました。
村落やインフラを排除し、焦土化してしまわなかったのが仇になったのかもしれません。
アメリカ軍もオーストラリア軍の独特の戦術を吸収することもありませんでした。
1962年から1972年までの10年に及ぶベトナム派遣期間中に、オーストラリアが得たのは莫大な戦費と521名の戦死者、3,000名以上の負傷者、さらに退役軍人に対する不当な評価や徴兵制に端を発した社会的な分断…オーストラリアにとってもベトナム戦争は大きな影を落とすことになりました。
出典:Military history of Australia during the Vietnam War
「華北における日本軍の治安戦」