2023年04月28日
ベトナム派遣オーストラリア軍について①

~オーストラリア陸軍 第3歩兵大隊 第1次ベトナム派遣~

東南アジア条約機構(SEATO)の主要構成国であるオーストラリアは、1962年より軍事顧問団のベトナムへの派遣を開始しました。
1965年からは大規模な兵力の派遣を行っています。
ここではオーストラリア陸軍 第3歩兵大隊(3rd Battalion, The Royal Australian Regiment以下3RAR)の第1次ベトナム派遣(1st Tour)について簡単に説明してみます。
3RARの第1次派遣は1967年末から1968年末までの1年間に渉り、フォクトゥイ省ヌイ・ダットに駐屯を開始。
1968年のテト攻勢ではアメリカ空軍ビエンホア空軍基地に対して増援部隊を送っています。
3RARはその後も複数の作戦に参加し、地雷除去、対迫撃砲戦闘や偵察任務に従事しました。
1968年末、3RARは第9歩兵大隊(9RAR)と任務を交代、祖国へと帰還しました。
第1次ベトナム派遣では3RARは24名の死亡者、93名の負傷者を生じています。
彼らは連隊共通のモットーである”Duty First”、最高の職務を果たしたと言えるでしょう。
オーストラリア陸軍M1956歩兵戦闘装備について

1960年代初頭、M1956歩兵戦闘装備を着用している1RAR(第1歩兵大隊)の某大尉。
オーストラリア陸軍は英連邦諸国が採用していたP1937歩兵戦闘装備を1960年代まで使用していました。
しかし、理想的とは呼べないP1937歩兵戦闘装備に代わり、アメリカ陸軍のM1956歩兵戦闘装備を採用しました。
同盟国であるアメリカと歩兵戦闘装備を共通することにより、補給面での簡素化も図られています。
形状や素材はアメリカ陸軍の仕様とは変わりませんが、オーストラリア陸軍向けのM1956歩兵戦闘装備は、USの代わりにD↑D※のスタンプが施されています。※DD(Department of Defence/国防総省の意)
バヨネットフロッグ(銃剣吊り)に関しては、オーストラリア陸軍での小銃用銃剣L1A2用に新規に生産されています。
M1956歩兵戦闘装備に装着出来るよう、ワイヤーフックが追加されています。
イギリス陸軍P1958歩兵戦闘装備について
イギリスで導入されたP1958歩兵戦闘装備はオーストラリア陸軍では採用しておりません。しかしながら1967年に1名の使用者(2RARの某少尉)の画像が残っていますが、氏がどのような経緯で入手したのかは残念ながら不明です。又、洋書では同装備を特殊部隊が着用しているイラストがありますが、こちらも出典は不明です。
後述しますが、P1937ベーシックポーチ/ラージをP1958キドニーポーチと誤認している方もいらっしゃるようです。
M1956歩兵戦闘装備の欠点とその現地改善
非常に先進的なM1956歩兵戦闘装備ではありますが、戦地で使用されるうちに欠点も見られるようになりました。
マガジンポーチはL1A1の弾倉を各2本が収納可能ではありましたが、より容量の多いP1937ベーシックポーチ/ラージ※を代替使用する兵士が少なからず現れました。画像の兵士の右腰に縛着されているのがP1937ベーシックポーチ/ラージです。7.62×51mm弾が100発程度は収納可能です。
※オーストラリア陸軍がかつて採用していた大型汎用ポーチ

シュラフ/寝具はクイックリリース可能なウェブストラップでサスペンダーに固定するようになっていましたが、密林内での携行性は悪く、また木の枝などでズタズタになってしまいました。
兵士たちはP1937ハーバーサック/ラージパックで携行するようになりましたが、拡張性の低い同パックはクイックリリース機能もなく、容量も余り多くありませんでした。
堅牢なM1956歩兵戦闘装備ではありましたが、過酷な戦場での消耗も著しく、前述の通りに代替装備(P1937やP1944)を使用する兵士たちも多く現れています。
マガジンポーチに付属している手榴弾携行用ストラップは信頼性が低く、専ら麻製のトグルロープ等の固定に使われています。
予備弾薬に関してはバンダリアで携行し、手榴弾はポーチ内に収納するよう励行されていたようです。
分隊支援火器の弾薬携行方法

分隊支援火器であるM60GPMGの弾薬携行手段として、エアマットレスを分解してカバーにするユニークな方法(兵士たちはBlow upと呼称)がとられました。
画像の兵士がたすき掛けしている黒っぽい物体がエアマットレスを分解したカバーです。重い弾薬箱を使用することなく、かつ弾薬を濡らすことなく携行する方法です。ベトナムに派遣された他国の軍隊でも同様の方法での携行は見られません。
ベトナム派遣オーストラリア軍についての四方山話
装備被服は同時代のアメリカ陸軍装備と比べて、入手することが困難になりました。
オーストラリア本国内でも消費されてしまった感もあります。
しかし、最近は映画用のレプリカ戦闘服等も製作されるようになりました。
日本国内では他国に比べてM1956装備の入手については比較的に容易です。
今回の展示品のような装備を再現することは不可能ではありません。
ベトナム派遣時のオーストラリア軍については、残念ながら邦訳された解説本などは殆どありません。
しかし資料が全く存在していない訳ではありません。
検索すれば画像は湯水の如く現れますし、情報開示された資料も当時のニュース映画も閲覧可能です。
各大隊別の写真集も販売されています。
当時の従軍者もご高齢でありますがSNSに勤しんでいます。
稀にコミュニティで昔話に花を咲かせる場合もあります。
そんなわけで、資料もモノも無い、なんて状況ではありません。
自分も、途中で何度か放置していた時期もありました。
でも、きちんと下調べしながら集めていれば、彼の国の方から「我が国でもここまでやっている人は少ないよ」なんて誉め言葉(リップサービスでしょうが)を貰えるまでになれるようにはなりました。
全ての軍装収集趣味について言えるのでしょうが、自分が着用している被服や装備が持つ意味を理解する必要がある、そんな気持ちがあれば、あまりにも適当な格好は出来ませんよね。
もしもベトナムに派遣されたオーストラリア軍について少しでも興味があった場合は、恐れることなくイベントで声をかけてみてください。
出典:Australian War Memorial
2023年04月28日
『DANGER CLOSE 196X』Ver.3(仮)開催します。

今回は1964年7月の「ナム・ドンの闘い」をイメージしたエアソフトゲームを開催します。

ナム・ドンの闘いとは…
南ベトナム北部ナム・ドンCIDGキャンプに展開していた、CIDGストライクフォースとベトナム解放戦線/解放軍で行われた闘いです。
史実では夜間に行われた大規模戦闘です。
映画「グリーン・ベレー」のモチーフにもなっています。
ドレスコードは1964年までインドシナ半島に展開していたベトナム民主共和国・ベトナム共和国・オーストラリア・大韓民国etc…
今回はアメリカ合衆国第5特殊部隊群分遣隊およびCIDG隊員と、
MAAG-V(Military Assistance Advisory Group/ベトナム軍事援助顧問群)での参加が可能です。
※年代にそぐわない装備被服、民間人での参加できませんのでご注意ください。
南北ともに推奨するエアソフトガンはM1/M2カービンです。
基本的にメーカーは問いませんが、AGM/M1カービンがお勧めです。
双方ともにイコールコンディションで楽しめます。
イベント公式WEB:アフガン198X
開催日:6月24日 ミリタリーキャンプ
:6月25日 エアソフトゲーム
参加費:エアソフトゲームDayのみの場合¥4,000。
ミリタリーキャンプは別料金¥2000です。
キャンプのみの参加費は¥3000です。
30歳未満の参加者は参加費をキャッシュバックします。
参加費用は現地徴収です。※現金のみ
場 所:千葉 サバイバルゲームフィールドGERONIMO
参加定員:25名予定
参加締切:6月20日 ※定員に達した場合は早期に締め切ります。
参加資格:18歳以上の健康な男女※装備被服は自弁してください。
本イベントはエアソフトゲームですが、実際の戦争をモチーフとしています。往時の兵隊さん達への敬意を忘れてはなりません。
互いの陣営の参加者にも、良識と誠実さをもって接してください。
【参加について諸注意】※別ウィンドウで詳細ページへ
【小火器類についての注意事項】※別ウィンドウで詳細ページへ
【エアソフトゲームに関して①】※別ウィンドウで詳細ページへ
【装備と被服について】※別ウィンドウで詳細ページへ
【1964年頃の南ベトナム解放民族戦線装備について】
※別ウィンドウで詳細ページへ
【1964年頃の第5特殊部隊群分遣隊被服について】
※別ウィンドウで詳細ページへ
【1964年頃のSF/CIDG/ARVN/AATTVの装備について】
※別ウィンドウで詳細ページへ
暫定スケジュール
6月24日(土) ミリタリーキャンプ
13:00 入場開始
19:00 有志BBQ開始予定※BBQ料金は割勘です。
22:00 フィールド入場口閉鎖
24:00 完全消灯
6月25日(日) エアソフトゲーム
07:59 前日キャンプのみ参加者は08:00会場離脱
08:00 送迎希望者はJR千葉駅西口集合※先着予約順です
08:30-09:30 受付時間※弾速測定も行います
10:00-10:30 開会式・ルール説明※戦闘装備で集合してください
10:40-11:40 第1ゲーム
11:50-12:50 大休止 昼食・撮影時間
13:00-15:50 第2ゲーム
16:00-16:30 閉会式/結果発表
16:40-17:40 撤収時間
18:00 完全撤収
【参加申込について】
参加希望の方は、具体的な参加ユニットと参加日程をコメントしてください。
コメントされていないと陣営配分が出来なくなります。
主催の判断でコメントを削除しますのでご了承ください。
コメント例
例1 南ベトナム解放民族戦線 両日参加
例2 オーストラリア軍事顧問 2日目参加 送迎希望
装備や被服について分からないことがありましたら、お気軽にお問い合わせください。
2023年04月27日
『デンジャー・クロース 極限着弾』を考察する11 よくある疑問
『デンジャー・クロース 極限着弾』を鑑賞していて、いくつか疑問が出てくるんじゃないかと思います。
代表的な疑問に対する返答になれば…

↑こちらは1969年に撮影されたロンタンの戦場跡です。

↑こちらは2005年に撮影されたロンタンの戦場跡です。現在は、立ち入り制限が為されているようです。

↑こちらは撮影中の様子。本作品はオーストラリアのカナングラにある密林戦闘訓練センター(Jungle Warfare Training Centre/JWTC)で撮影されています。同センターは現在もアメリカをはじめ、東南アジア諸国の陸軍部隊が訓練を行っています。
他の戦争映画の影響なのか、ベトナムは国土全体が密林みたいなイメージが強いようですね。
ロンタンのゴム農園跡での戦闘です。劇中でも台詞と描写(着弾して樹液が飛び散る)がありました。
いわゆるベトナム戦争映画の舞台になるような密林とは、異なります。決して間違いではありません。
アメリカが製作する東南アジアやジャングルが舞台になる映画は、だいたいハワイ島で撮影されています。
雲の形や植生で「ああ毎度毎度のハワイロケね…」なんて分かってくると思います。


↑こちらは当時の写真。

↑こちらは撮影時。
当時の動画がYouTubeでも閲覧できますが、よく再現していると思います。壇上の2人(リトル・パティとコル=ジョイ)も良く似てます。

実は、この作品を観るまで全く知らない俳優さんでした…
史実を基にした映画作品で、存命している関係者も多いので、基本的に当人に似た俳優さんが演じているんですが…
ちょっとトラヴィス・フィメルはゴツいですね。あの髪型も微妙です…

当初、ハリー・スミス少佐役はサム・ワーシントンが演じる予定もありましたが、やはりゴツいかなぁ…サム・ワーシントンはロンタンの闘いから40年後に製作されたドキュメンタリー番組のナレーションを担当しています。

個人的にはオーストラリア人俳優のベネディクト・ハーディが演じてたら…とか思います。ちょっと痩せぎすな体型かな。
6RAR(オーストラリア軍第6歩兵大隊)は、職業軍人を基幹要員として、徴兵された兵士を基に新編された部隊です。
初めての戦場がロンタンでした。古参兵士と新米兵士との確執(のようなもの)があったのかまでは実際は微妙ですね…

ゴードン・シャープ少尉。劇中ではチャラい感じでしたが…実際はオーストラリアのTVカメラマンとして就職後、選抜徴兵されています。その後、ダントルーン陸軍士官学校に進み、訓練期間中に骨折を伴う事故を起こしています。優秀な士官だったと思います。

ハリー・スミス少佐に食ってかかるポール・ラージ二等兵。ニューサウスウェールズ州クーラ出身で5人兄妹でした。
1966年4月、戦死する前に家族に宛てた手紙には、こんな風に書かれていたようです。
「D中隊は最高の中隊です。とりわけ第12小隊は最高の小隊。大したことではないように思えるかもしれませんが、信じてください。これは、他の小隊が羨むような最高の評価です。僕たちは、その評価に応えなければなりませんが、僕の仲間たちならば問題ないと確信しています。」
ベトナム派遣前の訓練期間中に部隊の結束は深まっていたんじゃないですかね。

この評価も正しいかな。
解放戦線が突撃を繰り返す理由を、6RAR側からセリフで説明すれば良かったかも。

「あいつらは肉薄して我々の砲撃支援を無効にするつもりだ!」とか。

ニュージーランド161砲兵中隊とオーストラリア103&105砲兵が3時間半にわたって行った砲撃支援は105mm野砲3,198発。さらに米軍砲兵部隊が155mm野砲242発を加えています。
結果、解放戦線側はD中隊に対する肉薄攻撃が遅れて、甚大な損害を被ることになりました。


こちらは諸説あります…
オーストラリア軍が分析した解放戦線の兵員数 1,500~2,000人
解放戦線が公表している自軍の兵員数 700人
オーストラリア軍が公表した戦果 戦死245人・負傷者350人
解放戦線が公表した戦果 戦死/戦傷者500人・戦車21両撃破
オーストラリア軍が公表した損害 戦死18人・負傷24人
解放戦線側が公表した損害 戦死50人・負傷100人
オーストラリア軍が公表した戦果は、戦場に遺棄された死体や血痕を基に算出したようです。
しかし、砲撃の影響で遺体はバラバラになってしまい、必ずしも正確な数値ではありません。
解放戦線が公表した戦果も、オーストラリア軍側の被害と照らし合わせると大きな乖離があります。
特に戦車21両…M113ACAVは車長が戦死する損害を受けていますが…

以下は、ロンタンの戦闘後に捕虜になったNguyen Van Nuong(別名LOC)の証言。
『フォクトイ省での影響力を高めるため、D275連隊から抽出した3個大隊、D445大隊と医療支援部隊からなる部隊によりヌイダット(1ATF)を総攻撃する作戦計画だった。』
『我々はヌイダットの総兵力を3000人程度と推測していた。迫撃砲攻撃により6RARの一部を誘き寄せて、D275/D445の2個大隊で包囲して叩く。残りの兵力をもってヌイダットに突入する計画だった。』
『D445大隊は6RARの退路を断ち、包囲を完結させることが目的だった。しかし待伏せ攻撃の準備が完了しないまま、戦闘状態に突入してしまった。加えてヌイダットからの火力支援の規模が大きく、結果的に突入を断念せざるを得なかった。』
『オーストラリア軍は、これまで戦ってきたアメリカ軍や南ベトナム軍よりも、攻撃に対する反応が早かった。』
以下は時系列別の戦闘状況です。




かつてD445大隊副大隊長だった、Tran Minh Tam現ベトナム人民軍名誉少将は、戦後、現地を訪れた6RARベテラン(ビュイック軍曹ら)に対して語っています。
『貴方たちは我々の包囲を破り、戦術的に勝利した。しかし我々は最終的には南北ベトナムを統一しました。』
軍隊は階級に応じて視点が異なります。1ATF(オーストラリア軍第1統合任務部隊)司令官である、デヴィッド・ジャクソン准将は大局的な判断が求められ、かつ背負っている責任も大きいです。
第二次世界大戦から朝鮮戦争を経て、ベトナム戦争に従軍しているジャクソン准将は決して無能な指揮官ではありません。
劇中でもネガティブな評価になってしまっている、ジャクソン准将とタウンゼント中佐に関しては別の記事にまとめようかと思います…
出典:Danger Close: The Battle of Long Tan
Remembering 21 year old Private Paul Large
代表的な疑問に対する返答になれば…
「ロケ地の東南アジア感が無さすぎ…」

↑こちらは1969年に撮影されたロンタンの戦場跡です。

↑こちらは2005年に撮影されたロンタンの戦場跡です。現在は、立ち入り制限が為されているようです。

↑こちらは撮影中の様子。本作品はオーストラリアのカナングラにある密林戦闘訓練センター(Jungle Warfare Training Centre/JWTC)で撮影されています。同センターは現在もアメリカをはじめ、東南アジア諸国の陸軍部隊が訓練を行っています。
他の戦争映画の影響なのか、ベトナムは国土全体が密林みたいなイメージが強いようですね。
ロンタンのゴム農園跡での戦闘です。劇中でも台詞と描写(着弾して樹液が飛び散る)がありました。
いわゆるベトナム戦争映画の舞台になるような密林とは、異なります。決して間違いではありません。
アメリカが製作する東南アジアやジャングルが舞台になる映画は、だいたいハワイ島で撮影されています。
雲の形や植生で「ああ毎度毎度のハワイロケね…」なんて分かってくると思います。
「慰問ライブのシーンでは兵士のエキストラが少なすぎ…」
ごもっとも…ちょっと少ないですね。

↑こちらは当時の写真。

↑こちらは撮影時。
当時の動画がYouTubeでも閲覧できますが、よく再現していると思います。壇上の2人(リトル・パティとコル=ジョイ)も良く似てます。
「トラヴィス・フィメルがいまいち…」

実は、この作品を観るまで全く知らない俳優さんでした…
史実を基にした映画作品で、存命している関係者も多いので、基本的に当人に似た俳優さんが演じているんですが…
ちょっとトラヴィス・フィメルはゴツいですね。あの髪型も微妙です…

当初、ハリー・スミス少佐役はサム・ワーシントンが演じる予定もありましたが、やはりゴツいかなぁ…サム・ワーシントンはロンタンの闘いから40年後に製作されたドキュメンタリー番組のナレーションを担当しています。

個人的にはオーストラリア人俳優のベネディクト・ハーディが演じてたら…とか思います。ちょっと痩せぎすな体型かな。
「新兵を引き連れた精鋭部隊が敵にやられる話」
実際のところ、そういうお話です。6RAR(オーストラリア軍第6歩兵大隊)は、職業軍人を基幹要員として、徴兵された兵士を基に新編された部隊です。
初めての戦場がロンタンでした。古参兵士と新米兵士との確執(のようなもの)があったのかまでは実際は微妙ですね…

ゴードン・シャープ少尉。劇中ではチャラい感じでしたが…実際はオーストラリアのTVカメラマンとして就職後、選抜徴兵されています。その後、ダントルーン陸軍士官学校に進み、訓練期間中に骨折を伴う事故を起こしています。優秀な士官だったと思います。

ハリー・スミス少佐に食ってかかるポール・ラージ二等兵。ニューサウスウェールズ州クーラ出身で5人兄妹でした。
1966年4月、戦死する前に家族に宛てた手紙には、こんな風に書かれていたようです。
「D中隊は最高の中隊です。とりわけ第12小隊は最高の小隊。大したことではないように思えるかもしれませんが、信じてください。これは、他の小隊が羨むような最高の評価です。僕たちは、その評価に応えなければなりませんが、僕の仲間たちならば問題ないと確信しています。」
ベトナム派遣前の訓練期間中に部隊の結束は深まっていたんじゃないですかね。
「べトコンはむやみに突撃はしなかったと思う…」

この評価も正しいかな。
解放戦線が突撃を繰り返す理由を、6RAR側からセリフで説明すれば良かったかも。

「あいつらは肉薄して我々の砲撃支援を無効にするつもりだ!」とか。

ニュージーランド161砲兵中隊とオーストラリア103&105砲兵が3時間半にわたって行った砲撃支援は105mm野砲3,198発。さらに米軍砲兵部隊が155mm野砲242発を加えています。
結果、解放戦線側はD中隊に対する肉薄攻撃が遅れて、甚大な損害を被ることになりました。

「108人VS2000人てホントかよ」

こちらは諸説あります…
オーストラリア軍が分析した解放戦線の兵員数 1,500~2,000人
解放戦線が公表している自軍の兵員数 700人
オーストラリア軍が公表した戦果 戦死245人・負傷者350人
解放戦線が公表した戦果 戦死/戦傷者500人・戦車21両撃破
オーストラリア軍が公表した損害 戦死18人・負傷24人
解放戦線側が公表した損害 戦死50人・負傷100人
オーストラリア軍が公表した戦果は、戦場に遺棄された死体や血痕を基に算出したようです。
しかし、砲撃の影響で遺体はバラバラになってしまい、必ずしも正確な数値ではありません。
解放戦線が公表した戦果も、オーストラリア軍側の被害と照らし合わせると大きな乖離があります。
特に戦車21両…M113ACAVは車長が戦死する損害を受けていますが…
「増援?誰が基地を守るのだね?
とか言ってる准将は考えすぎじゃね?」
とか言ってる准将は考えすぎじゃね?」

以下は、ロンタンの戦闘後に捕虜になったNguyen Van Nuong(別名LOC)の証言。
『フォクトイ省での影響力を高めるため、D275連隊から抽出した3個大隊、D445大隊と医療支援部隊からなる部隊によりヌイダット(1ATF)を総攻撃する作戦計画だった。』
『我々はヌイダットの総兵力を3000人程度と推測していた。迫撃砲攻撃により6RARの一部を誘き寄せて、D275/D445の2個大隊で包囲して叩く。残りの兵力をもってヌイダットに突入する計画だった。』
『D445大隊は6RARの退路を断ち、包囲を完結させることが目的だった。しかし待伏せ攻撃の準備が完了しないまま、戦闘状態に突入してしまった。加えてヌイダットからの火力支援の規模が大きく、結果的に突入を断念せざるを得なかった。』
『オーストラリア軍は、これまで戦ってきたアメリカ軍や南ベトナム軍よりも、攻撃に対する反応が早かった。』
以下は時系列別の戦闘状況です。




かつてD445大隊副大隊長だった、Tran Minh Tam現ベトナム人民軍名誉少将は、戦後、現地を訪れた6RARベテラン(ビュイック軍曹ら)に対して語っています。
『貴方たちは我々の包囲を破り、戦術的に勝利した。しかし我々は最終的には南北ベトナムを統一しました。』
軍隊は階級に応じて視点が異なります。1ATF(オーストラリア軍第1統合任務部隊)司令官である、デヴィッド・ジャクソン准将は大局的な判断が求められ、かつ背負っている責任も大きいです。
第二次世界大戦から朝鮮戦争を経て、ベトナム戦争に従軍しているジャクソン准将は決して無能な指揮官ではありません。
劇中でもネガティブな評価になってしまっている、ジャクソン准将とタウンゼント中佐に関しては別の記事にまとめようかと思います…
出典:Danger Close: The Battle of Long Tan
Remembering 21 year old Private Paul Large