2023年04月27日
『デンジャー・クロース 極限着弾』を考察する11 よくある疑問
『デンジャー・クロース 極限着弾』を鑑賞していて、いくつか疑問が出てくるんじゃないかと思います。
代表的な疑問に対する返答になれば…

↑こちらは1969年に撮影されたロンタンの戦場跡です。

↑こちらは2005年に撮影されたロンタンの戦場跡です。現在は、立ち入り制限が為されているようです。

↑こちらは撮影中の様子。本作品はオーストラリアのカナングラにある密林戦闘訓練センター(Jungle Warfare Training Centre/JWTC)で撮影されています。同センターは現在もアメリカをはじめ、東南アジア諸国の陸軍部隊が訓練を行っています。
他の戦争映画の影響なのか、ベトナムは国土全体が密林みたいなイメージが強いようですね。
ロンタンのゴム農園跡での戦闘です。劇中でも台詞と描写(着弾して樹液が飛び散る)がありました。
いわゆるベトナム戦争映画の舞台になるような密林とは、異なります。決して間違いではありません。
アメリカが製作する東南アジアやジャングルが舞台になる映画は、だいたいハワイ島で撮影されています。
雲の形や植生で「ああ毎度毎度のハワイロケね…」なんて分かってくると思います。


↑こちらは当時の写真。

↑こちらは撮影時。
当時の動画がYouTubeでも閲覧できますが、よく再現していると思います。壇上の2人(リトル・パティとコル=ジョイ)も良く似てます。

実は、この作品を観るまで全く知らない俳優さんでした…
史実を基にした映画作品で、存命している関係者も多いので、基本的に当人に似た俳優さんが演じているんですが…
ちょっとトラヴィス・フィメルはゴツいですね。あの髪型も微妙です…

当初、ハリー・スミス少佐役はサム・ワーシントンが演じる予定もありましたが、やはりゴツいかなぁ…サム・ワーシントンはロンタンの闘いから40年後に製作されたドキュメンタリー番組のナレーションを担当しています。

個人的にはオーストラリア人俳優のベネディクト・ハーディが演じてたら…とか思います。ちょっと痩せぎすな体型かな。
6RAR(オーストラリア軍第6歩兵大隊)は、職業軍人を基幹要員として、徴兵された兵士を基に新編された部隊です。
初めての戦場がロンタンでした。古参兵士と新米兵士との確執(のようなもの)があったのかまでは実際は微妙ですね…

ゴードン・シャープ少尉。劇中ではチャラい感じでしたが…実際はオーストラリアのTVカメラマンとして就職後、選抜徴兵されています。その後、ダントルーン陸軍士官学校に進み、訓練期間中に骨折を伴う事故を起こしています。優秀な士官だったと思います。

ハリー・スミス少佐に食ってかかるポール・ラージ二等兵。ニューサウスウェールズ州クーラ出身で5人兄妹でした。
1966年4月、戦死する前に家族に宛てた手紙には、こんな風に書かれていたようです。
「D中隊は最高の中隊です。とりわけ第12小隊は最高の小隊。大したことではないように思えるかもしれませんが、信じてください。これは、他の小隊が羨むような最高の評価です。僕たちは、その評価に応えなければなりませんが、僕の仲間たちならば問題ないと確信しています。」
ベトナム派遣前の訓練期間中に部隊の結束は深まっていたんじゃないですかね。

この評価も正しいかな。
解放戦線が突撃を繰り返す理由を、6RAR側からセリフで説明すれば良かったかも。

「あいつらは肉薄して我々の砲撃支援を無効にするつもりだ!」とか。

ニュージーランド161砲兵中隊とオーストラリア103&105砲兵が3時間半にわたって行った砲撃支援は105mm野砲3,198発。さらに米軍砲兵部隊が155mm野砲242発を加えています。
結果、解放戦線側はD中隊に対する肉薄攻撃が遅れて、甚大な損害を被ることになりました。


こちらは諸説あります…
オーストラリア軍が分析した解放戦線の兵員数 1,500~2,000人
解放戦線が公表している自軍の兵員数 700人
オーストラリア軍が公表した戦果 戦死245人・負傷者350人
解放戦線が公表した戦果 戦死/戦傷者500人・戦車21両撃破
オーストラリア軍が公表した損害 戦死18人・負傷24人
解放戦線側が公表した損害 戦死50人・負傷100人
オーストラリア軍が公表した戦果は、戦場に遺棄された死体や血痕を基に算出したようです。
しかし、砲撃の影響で遺体はバラバラになってしまい、必ずしも正確な数値ではありません。
解放戦線が公表した戦果も、オーストラリア軍側の被害と照らし合わせると大きな乖離があります。
特に戦車21両…M113ACAVは車長が戦死する損害を受けていますが…

以下は、ロンタンの戦闘後に捕虜になったNguyen Van Nuong(別名LOC)の証言。
『フォクトイ省での影響力を高めるため、D275連隊から抽出した3個大隊、D445大隊と医療支援部隊からなる部隊によりヌイダット(1ATF)を総攻撃する作戦計画だった。』
『我々はヌイダットの総兵力を3000人程度と推測していた。迫撃砲攻撃により6RARの一部を誘き寄せて、D275/D445の2個大隊で包囲して叩く。残りの兵力をもってヌイダットに突入する計画だった。』
『D445大隊は6RARの退路を断ち、包囲を完結させることが目的だった。しかし待伏せ攻撃の準備が完了しないまま、戦闘状態に突入してしまった。加えてヌイダットからの火力支援の規模が大きく、結果的に突入を断念せざるを得なかった。』
『オーストラリア軍は、これまで戦ってきたアメリカ軍や南ベトナム軍よりも、攻撃に対する反応が早かった。』
以下は時系列別の戦闘状況です。




かつてD445大隊副大隊長だった、Tran Minh Tam現ベトナム人民軍名誉少将は、戦後、現地を訪れた6RARベテラン(ビュイック軍曹ら)に対して語っています。
『貴方たちは我々の包囲を破り、戦術的に勝利した。しかし我々は最終的には南北ベトナムを統一しました。』
軍隊は階級に応じて視点が異なります。1ATF(オーストラリア軍第1統合任務部隊)司令官である、デヴィッド・ジャクソン准将は大局的な判断が求められ、かつ背負っている責任も大きいです。
第二次世界大戦から朝鮮戦争を経て、ベトナム戦争に従軍しているジャクソン准将は決して無能な指揮官ではありません。
劇中でもネガティブな評価になってしまっている、ジャクソン准将とタウンゼント中佐に関しては別の記事にまとめようかと思います…
出典:Danger Close: The Battle of Long Tan
Remembering 21 year old Private Paul Large
代表的な疑問に対する返答になれば…
「ロケ地の東南アジア感が無さすぎ…」

↑こちらは1969年に撮影されたロンタンの戦場跡です。

↑こちらは2005年に撮影されたロンタンの戦場跡です。現在は、立ち入り制限が為されているようです。

↑こちらは撮影中の様子。本作品はオーストラリアのカナングラにある密林戦闘訓練センター(Jungle Warfare Training Centre/JWTC)で撮影されています。同センターは現在もアメリカをはじめ、東南アジア諸国の陸軍部隊が訓練を行っています。
他の戦争映画の影響なのか、ベトナムは国土全体が密林みたいなイメージが強いようですね。
ロンタンのゴム農園跡での戦闘です。劇中でも台詞と描写(着弾して樹液が飛び散る)がありました。
いわゆるベトナム戦争映画の舞台になるような密林とは、異なります。決して間違いではありません。
アメリカが製作する東南アジアやジャングルが舞台になる映画は、だいたいハワイ島で撮影されています。
雲の形や植生で「ああ毎度毎度のハワイロケね…」なんて分かってくると思います。
「慰問ライブのシーンでは兵士のエキストラが少なすぎ…」
ごもっとも…ちょっと少ないですね。

↑こちらは当時の写真。

↑こちらは撮影時。
当時の動画がYouTubeでも閲覧できますが、よく再現していると思います。壇上の2人(リトル・パティとコル=ジョイ)も良く似てます。
「トラヴィス・フィメルがいまいち…」

実は、この作品を観るまで全く知らない俳優さんでした…
史実を基にした映画作品で、存命している関係者も多いので、基本的に当人に似た俳優さんが演じているんですが…
ちょっとトラヴィス・フィメルはゴツいですね。あの髪型も微妙です…

当初、ハリー・スミス少佐役はサム・ワーシントンが演じる予定もありましたが、やはりゴツいかなぁ…サム・ワーシントンはロンタンの闘いから40年後に製作されたドキュメンタリー番組のナレーションを担当しています。

個人的にはオーストラリア人俳優のベネディクト・ハーディが演じてたら…とか思います。ちょっと痩せぎすな体型かな。
「新兵を引き連れた精鋭部隊が敵にやられる話」
実際のところ、そういうお話です。6RAR(オーストラリア軍第6歩兵大隊)は、職業軍人を基幹要員として、徴兵された兵士を基に新編された部隊です。
初めての戦場がロンタンでした。古参兵士と新米兵士との確執(のようなもの)があったのかまでは実際は微妙ですね…

ゴードン・シャープ少尉。劇中ではチャラい感じでしたが…実際はオーストラリアのTVカメラマンとして就職後、選抜徴兵されています。その後、ダントルーン陸軍士官学校に進み、訓練期間中に骨折を伴う事故を起こしています。優秀な士官だったと思います。

ハリー・スミス少佐に食ってかかるポール・ラージ二等兵。ニューサウスウェールズ州クーラ出身で5人兄妹でした。
1966年4月、戦死する前に家族に宛てた手紙には、こんな風に書かれていたようです。
「D中隊は最高の中隊です。とりわけ第12小隊は最高の小隊。大したことではないように思えるかもしれませんが、信じてください。これは、他の小隊が羨むような最高の評価です。僕たちは、その評価に応えなければなりませんが、僕の仲間たちならば問題ないと確信しています。」
ベトナム派遣前の訓練期間中に部隊の結束は深まっていたんじゃないですかね。
「べトコンはむやみに突撃はしなかったと思う…」

この評価も正しいかな。
解放戦線が突撃を繰り返す理由を、6RAR側からセリフで説明すれば良かったかも。

「あいつらは肉薄して我々の砲撃支援を無効にするつもりだ!」とか。

ニュージーランド161砲兵中隊とオーストラリア103&105砲兵が3時間半にわたって行った砲撃支援は105mm野砲3,198発。さらに米軍砲兵部隊が155mm野砲242発を加えています。
結果、解放戦線側はD中隊に対する肉薄攻撃が遅れて、甚大な損害を被ることになりました。

「108人VS2000人てホントかよ」

こちらは諸説あります…
オーストラリア軍が分析した解放戦線の兵員数 1,500~2,000人
解放戦線が公表している自軍の兵員数 700人
オーストラリア軍が公表した戦果 戦死245人・負傷者350人
解放戦線が公表した戦果 戦死/戦傷者500人・戦車21両撃破
オーストラリア軍が公表した損害 戦死18人・負傷24人
解放戦線側が公表した損害 戦死50人・負傷100人
オーストラリア軍が公表した戦果は、戦場に遺棄された死体や血痕を基に算出したようです。
しかし、砲撃の影響で遺体はバラバラになってしまい、必ずしも正確な数値ではありません。
解放戦線が公表した戦果も、オーストラリア軍側の被害と照らし合わせると大きな乖離があります。
特に戦車21両…M113ACAVは車長が戦死する損害を受けていますが…
「増援?誰が基地を守るのだね?
とか言ってる准将は考えすぎじゃね?」
とか言ってる准将は考えすぎじゃね?」

以下は、ロンタンの戦闘後に捕虜になったNguyen Van Nuong(別名LOC)の証言。
『フォクトイ省での影響力を高めるため、D275連隊から抽出した3個大隊、D445大隊と医療支援部隊からなる部隊によりヌイダット(1ATF)を総攻撃する作戦計画だった。』
『我々はヌイダットの総兵力を3000人程度と推測していた。迫撃砲攻撃により6RARの一部を誘き寄せて、D275/D445の2個大隊で包囲して叩く。残りの兵力をもってヌイダットに突入する計画だった。』
『D445大隊は6RARの退路を断ち、包囲を完結させることが目的だった。しかし待伏せ攻撃の準備が完了しないまま、戦闘状態に突入してしまった。加えてヌイダットからの火力支援の規模が大きく、結果的に突入を断念せざるを得なかった。』
『オーストラリア軍は、これまで戦ってきたアメリカ軍や南ベトナム軍よりも、攻撃に対する反応が早かった。』
以下は時系列別の戦闘状況です。




かつてD445大隊副大隊長だった、Tran Minh Tam現ベトナム人民軍名誉少将は、戦後、現地を訪れた6RARベテラン(ビュイック軍曹ら)に対して語っています。
『貴方たちは我々の包囲を破り、戦術的に勝利した。しかし我々は最終的には南北ベトナムを統一しました。』
軍隊は階級に応じて視点が異なります。1ATF(オーストラリア軍第1統合任務部隊)司令官である、デヴィッド・ジャクソン准将は大局的な判断が求められ、かつ背負っている責任も大きいです。
第二次世界大戦から朝鮮戦争を経て、ベトナム戦争に従軍しているジャクソン准将は決して無能な指揮官ではありません。
劇中でもネガティブな評価になってしまっている、ジャクソン准将とタウンゼント中佐に関しては別の記事にまとめようかと思います…
出典:Danger Close: The Battle of Long Tan
Remembering 21 year old Private Paul Large