2023年03月20日

ベトナム派遣オーストラリア軍

ベトナム派遣オーストラリア軍

「オーストラリア軍歩兵大隊は、ベトナムで最も安全な戦闘部隊と評されている。多くのアメリカ兵の死者を出した致命的な待ち伏せに身をさらすことなく、オーストラリア兵がベトコンを追跡することができることを示したと広く考えられています。オーストラリア軍の定期哨戒部隊は、密林の小路や開けた地形を避けて、竹藪や絡まった葉っぱの中を慎重に、静かに道を選びます...オーストラリア兵と密林内を行動を共にするのは、イライラするような経験です。哨戒部隊は、一度に数歩前進し、立ち止まって耳を傾け、また前進する。1マイル四方の地形を掃討するのに9時間も歩き続けます…」1966年、オーストラリア軍に随伴した戦場記者ジェラルド・ストーン氏は、こうコメントしています。
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オーストラリア軍の基本的な軍事行動は、担当責任管区内を常に哨戒し続けることでした。一般的な兵士は12ヶ月の任期中、250日程度は基地から出撃し定期哨戒任務に参加したそうです。哨戒任務は3-4週間、これらの地道な作戦はベトコンの移動と住民への接触を困難にしました。
一部のベトコン指揮官にとって、オーストラリア軍の戦術が効果的であったことに疑いの余地はありませんでした。
元ベトコン指揮官は、次のように述べていると伝えられています。
「オーストラリア兵はアメリカ兵よりも忍耐強く、対ゲリラ戦術を理解しており、伏撃(アンブッシュ)にも長けていました。彼らは航空支援を要請することなく、我々と直接対峙して戦闘を続けることを好みました。我々は彼らの戦術を恐れていました。」
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「オーストラリア兵たちは練度が高く、常に民間人を戦闘に巻き込まないように努めて、ベトコンのみを相手に闘いました。一般的にオーストラリア兵による民間人への被害は稀でした。」とオーストラリアの戦場カメラマン、ニール・デービス氏は語っています。
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村落内捜索のため、住民を一時避難させている1RAR(オーストラリア軍第1歩兵大隊)の兵士たち。
オーストラリア軍はアメリカ軍とは異なり、ベトコンの拠点となり得る村落やインフラ(井戸や道路等)を"排除"するような戦術は行いませんでした。
たとえ潜在的なベトコンのシンパや温床になり得る可能性があっても、このような戦術は現地住民との関係性を崩壊させてしまうからです。
ベトナム派遣オーストラリア軍

オーストラリア軍は英連邦軍の一員としてマラヤ危機やボルネオ動乱の共産匪賊鎮圧作戦に参加しています。
ベトナム派遣以前より、密林内での行動術と現地住民との関係を重視する戦術を確立していました。
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Search & destroy=S&D(索敵殲滅作戦)
索敵殲滅作戦は1948年に発生したマラヤ動乱において、イギリス軍及び英連邦軍によって実施されました。
作戦実施当初は、共産匪賊の温床と成り得る村落の焼却や無関係な住民の殺傷事件も発生しています。
これらの行動は、かえって共産匪賊の活動を有利にしてしまいました。
いわゆる非対称戦については、かつての我が国でも研究が為されていました。
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日本陸軍でも現地情報の収集と民心掌握の重要性が理解されていたが、人員や物資の不足により成功しませんでした。
マラヤ動乱は、共産匪賊よりも英連合軍が人員も物資も圧倒した結果、鎮圧が成功しました。
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アメリカ軍の索敵殲滅作戦
ベトナム派遣軍副司令官、ウィリアム・ウェストモーランド将軍によるアメリカ軍によるベトナムでの基本的な軍事作戦は下記の3段階から成っていました。
1.ベトコンの捜索と捕捉(Search)
2.ベトコンの殲滅(Destroy)
3.ベトナム共和国軍主導による治安維持(Clear & Secure)
本来はベトコンを発見次第に攻撃殲滅するのではありません。ベトコンを捕捉し、自軍に有利な地形へ誘導して大兵力で勝敗を決する作戦です。
ベトナム派遣オーストラリア軍


ベトナム派遣オーストラリア軍


アメリカ軍は、ベトコンの温床となる可能性がある原住民の強制排除、他の地域への移住を実施しました。
オーストラリア軍が行わなかった、備蓄食糧と家屋の焼却も行われています。
村落の焼却(Zippo mission)と呼称されていました。
これらはオーストラリア軍とは全く相いれない戦術でした。
ウェストモーランド将軍も1ATF(1st Australian Task Force/第1オーストラリア統合任務部隊)が「戦闘に積極的ではない」とティム・ビンセント少将(ベトナム派遣オーストラリア軍総司令官)に伝えています。
アメリカ軍は迅速な兵力の展開と強力な火力による敵の撃滅、その後はベトナム共和国軍(南ベトナム軍)による安定化を図るという指針に基づいています。しかし、これらも限られた兵力数であるオーストラリア軍にとっては不可能でした。
ベトナム派遣オーストラリア軍

ベトナム戦争中のアメリカ兵とオーストラリア兵
アメリカ軍上層部はオーストラリア軍に対し戦争への積極性(Get Up and Go)、敢闘精神が足りないように感じていました。
オーストラリア軍はベトナム以前から密林での軍事作戦と治安維持を経験していたので、アメリカ軍の戦闘能力を見下していました。
アメリカ軍が重要視していたBody count(確認殺害戦果)に関しては、オーストラリア軍では"意味のないこと"として捉えられていました。
※確認殺害戦果を重要視した結果、虐殺事件に繋がっていったとも考えられています。
アメリカ軍は様々な出身地から集められた人員で編制されています。そのルーツ(イタリア系やユダヤ系、アフリカ系など)も様々です。
オーストラリア軍は人員数は少ないものの、基本的に一定のコミュニティ出身者を中心に編制されており、郷土的な結束も強かったとされています。
ベトナム全土が共産化した場合の危機感も、地理的に遠く離れたアメリカとオーストラリアとでは全く異なります。
ドミノ理論参照
ベトナム派遣オーストラリア軍

実はオーストラリア兵とアメリカ兵の確執は第二次世界大戦中から存在しています。
太平洋戦争時にオーストラリア本土に進駐したアメリカ兵達とオーストラリア兵と市民による衝突(ブリスベン暴動など)が発生しています。
アメリカ人との文化的な違い(有色系アメリカ人に対する態度や女性の扱い)、給与格差や食糧配分等が原因だったようです。
アメリカとオーストラリアは政府間の結びつきは強固でしたが、兵士や市民においては残念ながらそうでもなかったようです。
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オーストラリアのTVシリーズ「ベトナム」でもアメリカ兵に対する描写は非常に辛辣です。※「ベトナム」は編集されて邦題「陽のあたる街角」としてDVD化されています。
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ベトコンとオーストラリア軍
残念ながらベトナムにおけるオーストラリア軍の作戦は戦略的に成功したとは言えません。
ベトコンはオーストラリア軍との戦闘を悉く回避していたのが要因と考えられています。決定的な勝利を得ることはできませんでした。
また、地域住民もやがては去ってしまうオーストラリア軍に対しては冷ややかな態度だったんでしょう…
1ATF(オーストラリア軍 第1統合任務部隊)が撤退準備を進めるとともに、担当管区であったフォクトイ省でのベトコンの活動が活発化しました。
村落やインフラを排除し、焦土化してしまわなかったのが仇になったのかもしれません。
アメリカ軍もオーストラリア軍の独特の戦術を吸収することもありませんでした。
1962年から1972年までの10年に及ぶベトナム派遣期間中に、オーストラリアが得たのは莫大な戦費と521名の戦死者、3,000名以上の負傷者、さらに退役軍人に対する不当な評価や徴兵制に端を発した社会的な分断…オーストラリアにとってもベトナム戦争は大きな影を落とすことになりました。

出典:Military history of Australia during the Vietnam War
「華北における日本軍の治安戦」




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